日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

続 天正8年4月26日網干惣中宛羽柴秀吉判物

前回読んだ判物について、曖昧に誤魔化した「上使銭」について調べてみた。

  猶々急度可遣上使*1候へ共、上使銭以下造作*2之条、立佐*3差遣候、若於由

  断者、自是*4可申付候、以上、

英賀*5にけのき*6候もの共、預ヶ物*7可在之条、悉以可運上*8候、自然於相隠置者、後々聞付次第可成敗者也、

                     藤吉郎

  卯月廿六日*9                 秀吉(花押)

      網干*10

       惣中

「一、234号、77頁」

 (書き下し文)

英賀逃げ退き候者ども、預ヶ物これあるべくの条、ことごとくもって運上すべく候、自然相隠し置くにおいては、後々聞き付け次第成敗すべきものなり、

なおなお急度上使遣わすべく候え共、上使銭以下造作の条、立佐差し遣し候、もし由断においては、これより申し付くべく候、以上、

(大意)

 英賀城から逃げ出した者の預け物があるとのこと、すべて差し出しなさい。万一隠し持っている者がいた場合、後日露見した際はその場で成敗します。

なお、必ず上使を差し遣わしますが、上使銭以下の諸費用、手間については小西隆佐を派遣するのでよくよく相談して不調法のないようにしてください。万一まとまらないときはこちらから直接命じます。

 

 

尚〻書きの部分では、使者を迎える準備を網干惣中と小西隆佐が相談の上、準備怠りないようにと指示している。小西隆佐が秀吉と網干惣中を仲介する立場にあったのだろうか。


大徳寺御納所宛蜂須賀正勝連署奉書*11「賀茂領御指出之分上使銭被相済候」とあり、3328~3330号にも同様の文言が見えることから「上使銭」は「指出」に関する使者にかかる費用で、小西隆佐を派遣するのでよく相談の上取り計らうよう促した文書とみる方がよいのかもしれない。そう読むと最後の「もし油断においては、これより申し付くべく候」は秀吉が直接現地に出向いて丈量するという意味と解釈できる。

*1:上級権力者の意思を伝えるための使者、元亀3年6月23日付大徳寺御役者中宛、また大徳寺賀茂領・紫野指出を担っていると思われる木下祐久宛書状の発給人は「上使中」とあり、織田政権の常駐の役職だったらしいことがうかがえるが、他には見えない。奥野高廣『織田信長文書の研究』補遺250~251号

*2:費用のかかること、厄介事、またそのためにかかる費用、手間。ここでは「上使銭」とあるので上使を派遣する際に発生する費用、指出にかかる費用か。元亀3年大徳寺から「指出銭」「上使銭」などを徴収しているが未詳

*3:小西隆佐

*4:秀吉よりが直接出向いて直接命ずる

*5:英賀の寺内町で秀吉軍と戦った一向一揆、図参照

*6:逃げ退き

*7:問屋、土倉などに金品を預けること、またはその金品

*8:ここでは没収するの意

*9:天正8年

*10:播磨国飾東郡、図参照

*11:元亀3年6月20日大徳寺文書之十三」 3327号、166~168頁

天正8年4月26日網干惣中宛羽柴秀吉判物

  猶々急度可遣上使*1候へ共、上使銭以下造作*2之条、立佐*3差遣候、若於由

  断者、自是*4可申付候、以上、

英賀*5にけのき*6候もの共、預ヶ物*7可在之条、悉以可運上*8候、自然於相隠置者、後々聞付次第可成敗者也、

                     藤吉郎

  卯月廿六日*9                 秀吉(花押)

      網干*10

       惣中

                            「一、234号、77頁」

 (書き下し文)

英賀逃げ退き候者ども、預ヶ物これあるべくの条、ことごとくもって運上すべく候、自然相隠し置くにおいては、後々聞き付け次第成敗すべきものなり、

なおなお急度上使遣わすべく候え共、上使銭以下造作の条、立佐差し遣し候、もし由断においては、これより申し付くべく候、以上、

(大意)

 英賀城から逃げ出した者の預け物があるとのこと、すべて差し出しなさい。万一隠し持っている者がいた場合、後日露見した際はその場で成敗します。

 

なお、必ず上使を差し遣わしますが、上使銭以下の諸費用、手間については小西隆佐を派遣するのでよくよく相談して不調法のないようにしてください。万一まとまらないときはこちらから直接命じます。

 

 図 網干・英賀周辺図

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                   「日本歴史地名大系」兵庫県より作成

網干、英賀ともに、日本でもっとも有名になった史料のひとつである「兵庫北関入舩納帳」に船籍地として見える交通の要衝であり、商業が盛んだったことで知られている。本文に見える「預ヶ物」は、英賀の一向宗徒が焼失を避けて近隣の町場である網干の土倉などに預けて置いた金品であろう。秀吉は敵対勢力が預け置いた動産をことごとく没収するという手段に及んだわけである。二日前の24日には、播磨の国人である安積将監宛に「一人も遁さず搦め捕り候か、首討ち出でらるべく候」(232号)と残党狩りを徹底するよう依頼する旨の書状を書き送っている(長水城についても同様、233号)。

 

尚〻書きの部分では、使者を迎える準備を網干惣中と小西隆佐が相談の上、準備怠りないようにと指示している。小西隆佐が秀吉と網干惣中を仲介する立場にあったのだろうか。

*1:上級権力者の意思を伝えるための使者

*2:費用のかかること、厄介事、またそのためにかかる費用、手間。ここでは「上使銭」とあるので上使を派遣する際に発生する費用

*3:小西隆佐

*4:秀吉より

*5:英賀の寺内町で秀吉軍と戦った一向一揆、図参照

*6:逃げ退き

*7:問屋、土倉などに金品を預けること、またはその金品

*8:ここでは没収するの意

*9:天正8年

*10:播磨国飾東郡、図参照

天正8年1月15日村上源太宛羽柴秀吉書状

 

 

  尚〻当所*1寺社領*2之儀、急度可被相澄*3候、由断不可[ ](然候カ)
  次②当手*4之衆、其許*5相懸、剪銭*6候由候、如何様*7之仁躰*8候哉、可承

  候、以上、
態申候、旧冬*9生熊佐*10差越候処、被成御馳走*11由本望*12候、然者①其許百姓等所務*13等之□不沙汰*14曲事ニ候、就其重而生熊指越候、猶以於無沙汰者、人数*15等可申付候而可成敗候、被得其意、御肝煎*16専用候、此方用所*17等不可有疎意*18候、猶口状*19申含*20候、恐〻謹言、
                   羽藤
   正月五日*21            秀吉(花押)
    村上源太殿*22
        御宿所
                                「一、210号、69頁」

 

(書き下し文)

 

わざわざ申し候、旧冬生熊佐差し越し候ところ、御馳走なさるよし本望に候、しからば①そこもと百姓ら所務などの□不沙汰曲事に候、それについて重ねて生熊指し越し候、なおもって無沙汰においては、人数等可申し付けべく候て成敗すべく候、其意を得られ、御肝煎専用に候、この方用所など疎意あるべからず候、なお口状申し含め候、恐〻謹言、

なおなお当所寺社領の儀、きっと急度相澄さるべく候、由断しかるべからず候、次いで当手の衆、そこもと相懸り、剪り銭候よし候、如何ようの仁躰候や、承るべく候、以上、

 

(大意)

 

書面をもって申し上げます。昨年冬、生熊佐介を遣わしたところ、奔走なさるとのこと実に嬉しい限りです。さて、①そなたの地元の百姓どもは年貢諸役を納めずけしからぬことです。その件についてふたたび生熊を派遣しました。それでもまだ納めないなら軍勢を差し遣わして成敗します。その点よくお含みくださいますよう。けっして忘れることのないように。詳しくは口頭で申し上げます。謹んで申し上げました。

 

なお、当所寺社領年貢諸役未進の件、必ず理非をおつけになることと存じます。油断のないようにしてください。次に、②当軍勢の者に対して、そなたは「剪銭」に関わっているらしい。一体どのようなつもりなのか、本意をうかがうことになります。以上。

 

 

図 播磨国多可郡黒田庄周辺図

 

宛所の村上源太は、九条家に対し応永26年1月25日付で、毎年1月と11月に10貫文ずつ納めることを誓約した村上盛弘の子孫と考えられている。つまり在地の荘官だったようだ。その後太閤検地によって岡村に帰農したらしい。つまり本文書は在地の荘官に対して発給されたものということになる。

 

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                   「日本歴史地名大系」兵庫県より作成

 

①村上氏に対して百姓どもが「所務無沙汰」、つまり年貢などを未進しているので納めさせるよう促した。その際生駒佐介を派遣したが、それでも納めないのなら軍勢を派遣すると脅している。九条家の所務沙汰にここまで入れ込む事情は何か気になるが、本文書のみではこれ以上は分からない。

 

②「剪銭」の意味がはっきりしないので難しいが「如何様の仁躰に候や」とかなり問題視しているので、信長が悪銭座にのみ認めていた悪銭売買を村上氏が羽柴軍の兵士たちに行っていたと解釈した。なお、毛利家では家臣に土地を与えられないとき「切米」や「切銭」を扶持しているが、本文書の「剪銭」とは異なるものと考えた。また九条家への年貢の上前をはねる行為とも思えるが、直前に「当手之衆」とあるので彼らを相手にした行為と考えるのが妥当であろう。

 

「吾妻鏡」によれば弘長3年(1263)に切銭を使用することを禁じている。銭の周縁部を切り取ったり、薄くのばして銅を盗む行為やそのように加工された銭をいう。このような銭や摩滅した銭、私鋳銭などを悪銭や鐚銭(ビタセン)と総称し、室町幕府や戦国大名はたびたび商取引の際に良銭のみを選び取る行為(撰銭、エリセン/センセン/エリゼニ)を制限するよう命じている。

悪銭座については次の史料に見える。

 

 

 

参考史料

 

上下京悪銭売買事、如春長軒(村井貞勝)折帋、前々座方可致其沙汰、若違背之族在之者、可成敗之状如件、

   天正十一

     十一月十八日   (発給人欠:前田玄以)

         上下京悪銭

             座中

                         『大日本史料』第11編5冊262~263頁

 

 

この史料は、本能寺の変の翌年である天正11年に上下京の「悪銭座」宛に出されたもので、悪銭座とは悪銭と精銭を打歩(ダブ・ウチブ=プレミアム)をつけて売買する特権的商人のことである。注目すべきは「春長軒折紙のごとく、前々座方その沙汰いたすべし」とあるように、村井貞勝発給文書の踏襲だという点である。つまり、悪銭座は信長時代から特権的地位を与えられ、悪銭売買を行ってきた。悪銭売買は認められた者のみに許された行為であり、私的に行うことは許されない。したがって村上源太の行っている「剪銭」は織田政権にとって見逃すことのできない行為だったのである。

 

*1:播磨国多可郡黒田庄、図参照

*2:宇治平等院領/九条家領

*3:年貢納入などをしっかりと行う

*4:当軍勢

*5:村上源太

*6:「切り銭」、後述

*7:イカサマ/イカヨウ、なんと・どれほど

*8:世間体の悪いこと

*9:1月は「春」なので昨年の冬=10月~12月

*10:生熊佐介、織田信長家臣・生野銀山代官、295号参照

*11:奔走すること

*12:満足である

*13:荘園領主へ年貢などを納めること

*14:年貢諸役を納めないこと、「無沙汰」も同じ

*15:軍勢

*16:世話をすること

*17:なすべき事

*18:疎ましく思うこと

*19:「口上」に同じ

*20:指示通りに行うよう言い聞かせる

*21:天正8年

*22:後述

天正8~9年羽柴秀吉の中国攻めと郷村

今回は少々飛ばして、中国攻めにおける秀吉の郷村への対応を見ておきたい。

<史料1>  某宛羽柴秀吉書状

  尚以[     ]儀、丈夫ニ可被相卜*1候、此口之事ハ[ ]

  今度一揆蜂起候在々*2悉以令成敗候、放火候□、此方城*3之儀ハ

  来年出馬迄無異儀様ニ丈夫*4兵粮以下可申付事候、其方注進切々

  可被申候、又孫宿*5をハ先々機崎*6ニおかれ候へく候、以上、

重而令申候、岩根*7江つなき城*8として、きい山*9可然所之由候、然者委細垣播*10可被申候間、両三人談合候て、普請被申付、垣駿*11人夫以下家中者迄丈夫ニ被相卜候て可被入置候、左様ニ候者、垣駿ニ三百人之兵粮可被[  ]久蔵かた[  ]可被相渡候、委細垣幡ゟ可有演説*12候、恐〻謹言

                   藤吉郎

   九月廿五日*13            秀吉(花押)

  (宛所欠)

                       「一、278号、89頁」

 

 <史料2> 弓河内郷宛判物写

      条々    ゆミのかわち*14

一、今度当国一揆*15雖令蜂起候、当郷之事、神妙之覚語*16忠節*17ニ候、然者乱妨狼籍*18放火之族不可在之事

一、為褒美、年貢諸済物*19、亀井新十郎*20如申定*21、向後*22不可有相違事、

一、同為褒美、末代国役令免除事、

右弥於忠節仕者、猶以重而恩章*23可宛行者也、仍如件

    天正

     十月六日             藤吉郎(花押影)

                       「一、279号、89頁」

(書き下し文)

<史料1>

重ねて申せしめ候、岩根へつなき城として、紀伊山然るべきところのよしに候、しからば委細垣播申されべく候あいだ、両三人談合候て、普請申し付けられ、垣駿人夫以下家中の者まで丈夫に相うらなわれ候て入れ置かるべく候、さようにそうらわば、垣駿に三百人の兵粮[  ]らるべく久蔵かた[  ]相渡さるべく候、委細垣播より演説あるべく候、恐〻謹言、

 

なおもって[     ]の儀、丈夫に相うらなわれるべく候、この口のことは[ ]、このたび一揆蜂起候在々、ことごとくもって成敗せしめ候、放火候□、此方城の儀は来年出馬まで異儀なきように丈夫兵粮以下申し付くべくことに候、その方注進切々申されべく候、また孫宿をば先々機崎に置かれ候べく候、以上、

 

 <史料2>

      条々    弓河内

一、このたび当国一揆蜂起せしめ候といえども、当郷のこと、神妙の覚語忠節に候、しからば乱妨・狼籍・放火の族これあるべからざること

一、褒美として、年貢・諸済物、亀井新十郎申し定むるごとく、向後相違あるべからざること、

一、同じく褒美として、末代国役免除せしむること、

右いよいよ忠節仕るにおいては、なおもって重て恩章宛行うべきものなり、よってくだんのごとし、

 

(大意)

 <史料1>

 重ねて申し上げます。岩根への繋ぎ城として桐山城がふさわしいとのこと。それなら詳しくは垣屋光成の申すように両三人でよく相談し、普請を命じ、垣屋豊続の人夫以下、家中まで壮健な者を選び出し、普請に動員させてください。そうしたなら、三百人分の兵粮は・・・久蔵方・・・渡すことでしょう。詳しくは垣屋光成が申し上げます。謹んで申し上げました。

 

なお・・・の儀、壮健な者をしっかりと選び出してください。こちらの入口については・・・。このたび一揆に参加した村々はすべて成敗し、焼き払いました。・・・こちらにある城については来年の出馬まで異常のないよう陣夫役・兵粮の確保を命じることにしています。そちらがたびたび注進されているよう孫宿を機崎に配置します。以上。

 

 <史料2>

    条々   弓河内郷

一、このたび当国一揆が蜂起したにもかかわらず、当弓河内郷は鳥取城攻めにおいて忠節を尽くした。よって乱妨・狼藉・放火することを禁ずる

一、褒美として、年貢や諸済物は亀井茲矩が定めるようにする。

一、同様に褒美として、末代に至るまで国役を免除する。

このように忠節を尽くしたうえは、重ねて恩賞をあてがうものとする。以上。

 

史料1の下線部では一揆に参加した者を殲滅したと述べており、史料2では「織田=羽柴軍に恭順したので乱妨・狼藉・放火を禁ずる」とある。後者から「恭順しなかった場合の乱妨・狼藉・放火はやり放題」であったことが読み取れる。

 

また、天正9年7月4日秀吉書状に次の記述が見える。

<史料3> 某宛羽柴秀吉書状

 (尚〻書略)

一、但州*24七美郡一揆為可令成敗、去廿七日姫路*25を罷立、今月朔日ニ彼郡入口之谷〻追破、悉切捨申候事、

一、同七美郡之奥ニ小代谷与申所者(中略)、右郡中一揆等取籠申候を、因幡口よりも人数をまわし、同播州口従四方きりあけ*26、昨日三日ニ追崩、なてきり((撫で切り))其外生捕数を不知、はた物*27ニあけ申候事、

 (後略)

                               「一、327号、103頁」

(書き下し文)

一、但州七美郡一揆成敗せしむべきため、去る廿七日姫路を罷り立ち、今月朔日に彼の郡入口の谷〻追い破ぶり、ことごとく切り捨て申し候こと、

一、同じく七美郡の奥に小代谷と申すところは(中略)、右郡中一揆など取り籠もり申し候を、因幡口よりも人数を回し、同じく播州口四方よりきりあけ、昨日三日に追い崩し、なてきりそのほか生け捕り数を知らず、はた物に上げ申し候こと、

 

但馬国七美郡一揆に対し、「ことごとく切り捨て」、「撫で切り、そのほか生け捕り数を知らず、はた物に上げ」と容赦ない対応を取ったことを秀吉自身が自慢げに記している。これが秀吉の「攻め殺し」である。

 

 図1 丹後国宮津城と与謝郡機崎

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            『宮津市史史料編第1巻』付図より作成

図2 弓河内郷と鳥取城攻め関係図1

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                  鳥取県公文書館提供図より作成

図3 弓河内郷と鳥取城攻め関係図2

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                   「日本歴史地名大系」鳥取県より作成

 

*1:ボクシ/ウラナイ、判断する・定める

*2:村々

*3:未詳

*4:陣夫役に駆り出された者たち

*5:「畠山禅高」と文書集にはあるが未詳

*6:ハタザキ、丹後国与謝郡カ、図1参照

*7:岩常城のことか

*8:繋城、遠くに隔った2つの城を結ぶために中間につくった城

*9:因幡国桐山図3参照

*10:垣屋播磨守光成

*11:垣屋駿河守豊続

*12:説明する

*13:天正8年

*14:因幡国弓河内郷、図2、3参照

*15:「当国国一揆」なのか「当国、一揆」なのかは措く

*16:覚悟

*17:織田軍へ恭順の意を示したこと

*18:狼藉

*19:サイモツ、貢ぎ物。ここでは年貢諸役の意

*20:茲矩

*21:恣意的で際限のない負担を制限した

*22:キョウコウ

*23:恩賞

*24:山陰道但馬国

*25:山陽道播磨国

*26:切上、敵を切って攻め込む

*27:磔刑

天正8年1月20日沼元新右衛門尉宛宇喜多直家書状 三木城攻めの諸相 その3/止

(折紙・・・切封カ)

対宇*1一御折紙披見申候、今度於篠葺*2各御調之分、普請注文岡権*3指越候、被抽余人、一角*4被仰付と見へ申候、御入魂*5祝着之至候、打続城山之普請、是又大分御調之段、快然*6之至誠難尽紙上候、弓矢之詮*7此時と存候条、被入御精之段、向後不可有忘却候、随而三木*8本丸落去之左右*9、昨日以早馬河内*10へ申遣候、其後自羽筑*11花房又七*12被指下、様躰具被申下候、筑州・蜂彦*13紙面今朝以右行事*14河内へ差遣候、定其方へも可有到来候、別小三*15・同山城*16・彦進*17腹を切、年寄中*18一両人同前ニ候、相残物*19(を)ハ一所へ追寄、番*20を被付置、悉可被果と相聞*21播州之事ハ不及申、但州大田垣*22構武田城*23も去十五日ニ令落去、於于今者両国*24平均*25候、自因州鳥取*26も人を被付置、切々*27懇望候、花又*28見及候条無不審*29候、諸勢今明*30之間ニ英賀表*31へ打下、西表敵陣へ趣*32聞合*33可及行にて候、西国之儀可任存分と大慶ニ存候、猶天兵*34可被申之条閣*35筆候、恐〻謹言、

   正月廿日          直家*36(花押)

     沼新右*37  御返報*38

            長浜市長浜歴史博物館編『秀吉に備えよ!!』43号文書

(書き下し文)

宇へ対し一御折紙披見申し候、このたび篠葺においておのおの御調いのぶん、普請注文岡権指し越し候、余人を抽んぜられ、ひとかど仰せ付けられと見え申し候、御入魂祝着のいたりに候、打ち続く城山の普請、これまた大分御調いのだん、快然のいたり誠に紙上に尽くしがたく候、弓矢の詮この時と存じ候条、御精を入れらるるのだん、向後忘却あるべからず候、したがって三木本丸落去の左右、昨日早馬をもって河内へ申し遣わし候、その後羽筑より花房又七指し下され、様躰つぶさに申し下だされ候、筑州・蜂彦紙面今朝右行事をもって河内へ差し遣し候、さだめて其方へも到来あるべく候、別小三・同山城・彦進腹を切、年寄中一両人同前に候、相残るものをば一所へ追い寄せ、番を付け置かれ、ことごとく果てらるべしと相聞け候播州のことは申すに及ばず、但州大田垣構え、武田城も去んぬる十五日に落去せしめ、今においては両国平均候、因州鳥取よりも人を付け置かれ、切々懇望に候、花又見及び候条不審なく候、諸勢今明のあいだに英賀表へ打ち下し、西表敵陣へ赴くと聞き合い及ぶべき行いにて候、西国の儀存分に任すべくと大慶に存じ候、なお天兵申さるべくの条閣筆候、恐〻謹言、

(大意)

当方への手紙拝見しました。このたびの篠葺城での準備、普請の注文について岡権を差し遣わしたことたいそうなお働きと存じます。相手方と通じたこと実にめでたいことです。立て続けに城を築くことも大方すんだとのこと筆舌に尽くしがたい思いです。合戦はこの時とばかりに精を入れられたこと決して忘れません。さて、三木城本丸落城の様子、昨日早馬にて河内城へ伝えました。その後羽柴秀吉より花房正成をよこし、その様子詳しく伝えてくれました。羽柴・蜂須賀が書面にて使者を河内城へ遣わしました。きっとそちらへも知らせが行くことでしょう。別所長治・吉親・友之は腹を切り、重臣たちも同様に腹を切りました。残る者は一ヶ所へ押し込め、見張り番をつけ、全員死すべしと命じられました。播磨はもちろんのこと、但馬の国人大田垣が立て籠もっている武田城も先日15日に落ち、現在播磨・但馬両国が平定されました。因幡鳥取よりも人を寄越し、度々歎願しています。花房が見届けていますので不明な点はないでしょう。軍勢は今日明日にでも英賀城を落とし、西の敵陣へ赴くと口々に言い募っています。西国では存分に戦うとのことめでたいことです。詳しくは天兵が申しますのでここで筆を擱きます。謹んで申し上げました。

 

図 1 中国攻め関係図

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下線部の 「相聞け」の主語がはっきりしないものの、おそらく秀吉であろう。城中に立て籠もった者を一ヶ所に集め、見張り番までつけて「ことごとく相果てらるべし」と命じたようだ。秀吉は恭順した百姓には年貢減免を行う一方、抵抗した村々はことごとく焼き払ったという(機会を改めて)。別所長治縁者と重臣の命と引き換えに城中に立て籠もった者は助けたという話は疑った方がよさそうだ。三木城攻めとならぶ兵粮攻めに鳥取城攻めがある。その悲惨な様子を「信長公記」は次のように伝えている。

 

Cf. 信長公記」巻11に見る鳥取落城時の様子

 

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                    『史籍集覧』15 国会図書館


 

(書き下し文)

信長公記」巻11

十月二十日
今度因幡国(ア)鳥取一郡の男女ことごとく城中へ逃げ入り楯て籠もり候、下々百姓以下長陣の覚悟なく候のあいだ、即時に餓死*39に及び、はじめのほどは五日に一度、三日に一度鐘をつき、鐘次第雑兵こごとく柵ぎわまで罷り出で木草の葉を取り、なかにも稲かぶを上々の食物とし、あとにはこれも事尽き候て、牛馬をくらい、霜露にうたれ、弱き者餓死(かつえし)際限なく(イ)餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女柵ぎわへ寄り、もだえこがれ引き出し扶けそうらえと叫び、叫喚の悲しみ哀れなる有様、目も当てられず…


②(ウ)鉄砲を以て打ち倒れそうらえば、片息(虫の息:つまり生きている)したるその者を人集まり、刀物を手に手に持って続節(関節)を離ち、実取り候き、身のうちにても取り分け、頭よく味わいある(コウベがおいしい)と相見えて、頸をこなたかなたへ奪い取り逃げ候き


十月二十五日
③あまりに不憫に存じられ、食物与えられそうらえば、食に酔い過半頓死候、まことに餓鬼のごとく痩せ衰えてなかなか哀れなる有様なり

下線部(ア)によれば「鳥取一郡の男女ことごとく…下々百姓以下」とあるので、鳥取郷の者たちが男女を問わず全員城内へ逃げ込んだようだ。(イ)によると「城外へ出して助けてくれ」と叫ぶ者もいたらしい。(ウ)は秀吉軍が鉄砲で撃った者をまだ生きているうちに人々が集まり、バラバラにして食べていたらしい。とくに頭が美味しいと見えて頸を取り合っていたという。ハンニバル・レクター顔負けの惨状である。

 

このように「攻め殺し」にしろ「干し殺し」にしろ酸鼻を極める結果は避けられなかった。これが戦国期社会の一側面である。

 

*1:宇喜多に対し

*2:美作国大庭郡篠葺城

*3:宇喜多家臣岡剛介カ

*4:ひとかど

*5:了解を得るため前もって申し入れ、親しくなること。「昵懇」

*6:心地よい様

*7:かい、甲斐

*8:播磨三木城

*9:「ソウ」有様、様子

*10:播磨国加西郡河内城/別所城カ

*11:羽柴筑前守秀吉

*12:宇喜多家家老花房正成

*13:蜂須賀彦右衛門正勝

*14:担当者、責任者、ここでは使者のことか

*15:別所長治

*16:別所賀相吉親

*17:別所友之

*18:重臣

*19:「相残る者」が城内に逃げ込んできた老若男女を含むのかは未詳。Cf.「信長公記」や甫庵「太閤記」の鳥取城落城の場面

*20:見張り

*21:申し付ける、命じる

*22:竹田城

*23:但馬国朝来郡竹田城

*24:播磨・但馬両国

*25:平らげる

*26:因幡国邑美郡鳥取

*27:たびたび

*28:花房又七

*29:はっきりしないこと

*30:今日明日

*31:播磨国飾磨郡英賀城

*32:向かう、赴く

*33:「言い合う」の謙譲語、口々に言い合う

*34:この文書を持参した使者の名前、安芸国人天野氏か

*35:「擱」

*36:宇喜多/浮田直家

*37:宇喜多家家臣、美作国久米南条郡の国人沼本(ヌモト)房家

*38:返事につける脇付、「御返事」、「御返報」、「御報」、「貴報」、「尊報尊答」の順に礼が厚くなる。「御返報」は同輩もしくは下輩

*39:かつゑし、なお「かつえ」という言葉で思い出されるのがこちらの騒動であろう

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