日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

永禄13年3月28日大住庄名主御百姓同小作中宛武井夕庵・木下秀吉連署状

当所之事、今度被遂御糺明候処、曇華院殿様*1御理運*2ニ付て、諸入組*3共ニ一円*4ニ(闕字)御寺様へ可被仰付之由、無是非*5候、一切許容あるへからす候、若何かと候者、交名*6を書付、注進可申候、きと*7可申届候、為其意得申候*8、恐々謹言、

                     夕庵*9

   三月廿八日*10             尓伝(花押)

                     木下藤吉郎

                      秀吉(花押)

 大住庄

  名主御百姓

      同小作中

              豊臣秀吉文書集 一」21号文書、9頁

 

(書き下し文)

当所のこと、このたび御糺明を遂げられ候ところ、曇華院殿様御理運について、諸入組ともに一円に御寺様へ仰せ付けらるべきのよし、是非なく候、一切許容あるべからず候、もし何かとそうらわば、交名を書き付け、注進申すべく候、きっと申し届くべく候、その意を得させ申し候、恐々謹言、

(大意)

 大住庄のことは、このたび信長様が御詮議され、曇華院様の主張が裏付けられたので、地理的に入り組んでいるところもともに、一円支配とする旨命じたとのこと、異議は一切認めない。もし何かと不満を申したならば、その者の名前を書き出し、必ず報告しなさい。よく心得るように。

 

前回読んだ曇華院領山城国綴喜郡大住庄の相論に関する文書である。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

信長の朱印状が出されたのでその旨よく心得るよう、明智光秀丹羽長秀中川清秀、木下秀吉4名による連署状が発せられた6日後、本文書が充所に名主百姓のみならず「下作職」を持つと思われる「小作中」も書き加えられている点が興味深い。

 

「是非なく候、一切許容あるべからず候、もし何かとそうらわば、交名を書き付け、注進申すべく候」とあるように、在地では信長が曇華院の領地であると裁定したことについて、下層の農民まで不満が収まらなかったようである。それだけ、「小作」人の存在感が増してきたもいえる。

 

 

 

*1:聖秀女王、後奈良天皇の第7皇女

*2:道理があること。特に裁判で勝訴するに足る法的根拠を持つこと

*3:地理的に飛び飛びになっている所領、中近世では珍しくない

*4:地理的にまとめてという意味と一元的にという意味があり、双方を意味する場合もある

*5:善し悪しを議論・品評すること。ここでは信長の判断に異議を申し立てること

*6:多くの人名を書き連ねた文書

*7:急度

*8:通常は「得其意」と書くべきところか

*9:武井、信長の右筆

*10:永禄十三年

永禄13年3月22日大住庄三ヶ村名主御百性中宛明智光秀外3名連署状を読む

 

 

曇花院*1殿*2樣御領大住庄*3三ヶ村、同南東跡職*4等之儀、今度一色式部少輔*5殿御違乱ニ付而、双方躰*6御糺明之処、(闕字)御寺様*7より御理*8之段無紛候間、御朱印*9被進之候、一円ニ可被仰付之由候上者*10では、入組*11買得方、其外南東家来等ニ至る迄、御寺様可為御計候、守護不入之知(ママ)として御直務之条、御年貢所当無疎略可進納申事簡要*12候、於無沙汰者、可為御成敗者也、謹言、

   永禄十三           木下藤吉郎

     三月廿二日           秀吉(花押)

                  丹羽五郎左衛門尉

                     長秀

                  中川八郎右衛門尉

                     重政

                  明智十兵衛尉

                     光秀

 大住庄三ヶ村

    名主御百性中

 

(書き下し文)

 

曇花院殿樣御領大住庄三ヶ村、同じく南東跡職などの儀、このたび一色式部少輔殿御違乱について、双方てい御糺明のところ、(闕字)御寺様よりおことわりの段紛れなく候あいだ、御朱印これを進らせ候、一円に仰せ付けらるべきのよし候うえは、入り組み・買得方、そのほか南東家来などにいたるまで、御寺様お計らいたるべく候、守護不入の地として御直務の条、御年貢・所当疎略なく進納申すべきこと簡要に候、無沙汰においては、御成敗たるべきものなり、謹言、

 

(大意)

 

 曇花院殿樣の御領地である大住庄三ヶ村および南東の土地相続のことについて、このたび一色藤長が不満を主張してきたので、双方の言い分を詮議したところ、曇花院様のご主張が正当であることが明らかとなったので信長様より朱印状を差し出しました。一円支配を認めたうえは、所領が入り組んでいるところや買得によって得た土地、そのほか南東の家来の知行地にいたるまで曇花院様の御支配とすべきである。守護不入の地として、直接支配のこと、年貢やその他所当など遅滞なく納めることが肝要です。もし怠る者がいれば、きびしく対処する。

 

 

 Fig. 大住庄周辺図

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全体的に丁寧な表現が見られる。なかでも「御寺様」を闕字にしている点はそれを象徴するものといえる。ただ、なぜか秀吉以外の花押が据えられていない。

 

一色藤長が将軍足利義昭と武田信玄によしみを通じようとした、その直前の出来事だが、具体的には信長の朱印状によれば「一色式部少輔相搆付而」(一色式部少輔あいかまうるについて)とあるように、曇華院領に侵入したようであり、それをここでは「今度一色式部少輔殿御違乱」と表現している。

 

それに対し信長の裁定により曇花院の主張が正当であり、名主百姓たちにも正当な領主へ年貢・所当を納めるよう命じている。

 

荘園領主レベルの土地争いは、年貢所当を務める荘園の住民の生活に直結する。したがって重複して負担せぬようにするのが、戦国期の上級領主の義務でもあった。

 

*1:曇華院:ドンゲイン、嵯峨にある臨済系単立の尼寺

*2:聖秀女王、後奈良天皇の第7皇女、義輝の猶子となり、曇華院に入る

*3:山城国綴喜郡

*4:南大隅守の知行の相続

*5:一色藤長、将軍義輝、義昭のもとで幕府御供衆となる

*6:テイ、様子・状況

*7:曇花院

*8:オコトワリ、物事の筋道。ここでは一色藤長より曇花院の主張に理があるという意

*9:永禄13年3月22日曇花院雑掌宛織田信長朱印状、奥野高広『織田信長文書の研究』215号文書、上巻356頁

*10:上掲奥野著書上巻357~8頁では「被仰付候者」で「仰せつけらるべくそうろう、てへれば」と読んでいる

*11:所領が飛び飛びになっていること、また係争地になっていること。「入組」には紛争の意もある

*12:大切であること、現在の「肝要」に同じ

永禄12年11月晦日当所名主百姓中宛木下秀吉書状を読む

西五反田*1代官職事、安威兵部少輔*2方被帯補任*3、当知行以筋目、今度重而被成御下知候処ニ、理不尽ニ為本所*4御納所之由候、不可然候、如前々安兵代*5ニ可令納所候、万一於無沙汰者、可譴責候、為案内*6如此候、恐々謹言、

                  木下藤吉郎

  十一月晦日*7               秀吉(花押)

    当所*8名主百姓中

                豊臣秀吉文書集 一」18号文書、7頁

 

(書き下し文)

西五反田代官職のこと、安威兵部少輔方に補任を帯びられ、当知行筋目をもって、このたびかさねて御下知なられ候ところに、理不尽に本所として御納所のよし候、しかるべからず候、前々のごとく安兵代に納所せしむべく候、万一無沙汰においては、譴責すべく候、案内としてかくのごとく候、恐々謹言、

(大意)

西五反田(どこかの荘園か)の代官職について、安威兵部少輔を任じる補任状をたずさえ、当知行を筋目に従い、なんども信長様の下知が下されているところである。しかるに、正当な理由なく「本所」と称している者に年貢・公事などを納めているとのこと、まことに言語道断である。従来通り、西五反田の代官は安威兵部少輔なので彼に納めるようにしなさい。もし、怠った場合は厳しく追及する。そういうことである。

 

本文書では具体的な地名は詳らかでないが、織田政権(その家臣としての秀吉)が正当な荘官として安威兵部少輔を任じているのに対し、名主百姓たちは「本所」と主張している方へ年貢等を納めていて、それに対して秀吉は安威が正当な代官であるから、今後はそちらへ納めるようにと命じている。

 

この文書だけでは状況を把握するのはむずかしいが、「当所名主百姓」らがあれこれと理由をつけて年貢徴収に応じていない様子はうかがえそうだ。

*1:未詳

*2:未詳

*3:ブニン:職に任命すること。または補任状。ここでは後者。本来職を付与することを「補」、官を与えることを「任」と呼んだが、両者が合わさって「補任」と称するようになった

*4:荘園領主

*5:安威兵部少輔を代官として

*6:ものごとの事情、内容。「案」は文書の下書き「案」「草案」を意味し、「案」の「内容」すなわち「案内」で公文書の内容を意味した

*7:永禄12年:同年の11月は大の月なので29日にあたる

*8:西五反田

永禄12年4月16日丹波国名主百姓中宛木下藤吉郎外3名連署状写を読む

<史料1>

当所*1之事、近年雖令宇津*2押領、今度被遂御糺明*3、永禄六年之誓紙・同七月廿三日任条数之旨*4、如前々対内藤藤五郎*5一途*6被(闕字)仰付*7、被成御朱印年貢諸公事物等、郷代*8江可致其沙汰之由、被仰出候也、仍状如件、

  永禄拾弐

    卯月十六日       丹羽五郎左衛門尉長秀

                木下藤吉郎秀吉

                中川八郎右衛門尉重政

                明智十兵衛尉光秀

      新庄   世木村  山科村

      西田村  日置村  氷所村

      田原村  大谷村  四万村

      広瀬村

        名主百姓中

   

                  豊臣秀吉文書集 一」5号文書、3頁

 

(書き下し文)

 当所のこと、近年宇津押領せしむるといえども、このたび御糺明を遂げられ、永禄六年の誓紙・同七月廿三日条数の旨に任せ、前々のごとく内藤藤五郎へ対し一途仰せ付けられ、御朱印ならるる上は、年貢・諸公事物など、郷代へその沙汰致すべきのよし、仰せ出だされ候なり、よって状くだんのごとし、

 

(大意)

 丹波国山国荘について、近頃宇津頼重が押領しているとはいえ、このたび信長様が裁定し、永禄6年の誓紙および同年7月23日の条目の趣旨の通り、従来通り内藤貞弘に対して方針を命じ、信長様の朱印状が発給された以上、年貢・公事などを荘官へ納めるよう命じられたところである。以上である。

 

 

 Fig. 充所郷村周辺図 (ただし、新庄と大谷村は複数見え特定できなかった)

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「日本歴史地名大系」京都府より作成

 <史料2>

禁裏御料所山国庄之事、数年宇津右近大夫押領仕候を、今度信長遂糺明、宇津ニ可停止違乱之由申付、両御代官へ信長以朱印申渉*9候、如前々為御直務*10可被仰付之由、御収納不可有相違候、宇津かたへも堅申遣候、此等之旨可有御披露*11候、恐々謹言、

                 木下藤吉郎

   四月十六日            秀吉(花押)

                 丹羽五郎左衛門尉

                    長秀(花押)

                 中川八郎右衛門尉

                    重政(花押)

                 明智十兵衛尉

                    光秀(花押)

    立入左京亮*12殿

                織田信長文書の研究」165号文書、上巻、279~280頁

(書き下し文)

禁裏御料所山国庄のこと、数年宇津右近大夫押領つかまつり候を、このたび信長糺明を遂げ、宇津に違乱停止すべきのよし申し付け、両御代官*13へ信長朱印をもって申し渡し候、前々のごとく御直務たるべく仰せ付けらるべきのよし、御収納*14相違あるべからず候、宇津方へも堅く申し遣し候、これらの旨御披露あるべく候、恐々謹言、

 

(大意)

皇室領山国庄のこと、ここ数年宇津頼重が押領していましたのを今回信長が裁定し、宇津に非法をやめるように命じ、両荘官に信長の朱印状によって命じました。従来のとおり直接支配されるようにとのことですので、年貢等の徴収は間違いなく行ってください。宇津の方にもきびしく申し付けますのでこの趣旨を朝廷にお伝えください。謹んで申し上げました。

 

<史料3>

此中申旧候禁裏御料所山国庄枝郷所々、小野*15、細川*16*17如先規、自禁中可被仰付候旨、信長以朱印申渉*18候、聊不可有御違乱候、此旨各より可申旨候、恐々謹言、

                 丹羽五郎左衛門尉

    四月十八日            長秀(花押)

                 木下藤吉郎

                     秀吉(花押)

                 中川八郎右衛門尉

                     重政(花押)

                 明智十兵衛尉

                     光秀(花押)

   宇津右近大夫殿

         御宿所

 

                    「織田信長文書の研究」166号文書、上巻、280~281頁

(書き下し文)

このうち申し旧り候禁裏御料所山国庄、枝郷所々、小野、細川、先規のごとく、禁中より仰せ付けらるべく候旨、信長朱印をもって申し渉し候、いささかも御違乱あるべからず候、この旨おのおのより申すべき旨に候、恐々謹言、

 

(大意)

 

従来から主張している禁裏御料所である山国庄(枝郷が所々に散在している、小野・細川)はこれまでどおり皇室領とすると、信長が朱印状によって申し渡したところである。いささかでもこれに背くことのないようにしなさい。この点署名している四名から直接伝えることになっている。恐々謹言。

 

3点の文書の署名に注目すると明智光秀が必ず一番「奥」に位置している。これはもっとも地位が高いことを示しており、若干流動的な他の3名と異なることを物語っている。

 

中世はこうした「押領」が常態化した社会であり、自力に訴え出ることも珍しくなかった。しかし、信長はみずから裁定を下し、朱印状を発給することでこの決定が有効であることを保証したわけである。

 

史料1は「名主百姓中」あてで、対立していた朝廷と宇津頼重以外の在地に宛てて文書を発給しているところは興味深い。荘園の支配権をめぐって争われているが、そこに住み耕作している者たちの存在感をうかがわせる文書である。

*1:皇室領丹波国山国荘、下図参照

*2:頼重:丹波国桑田郡宇津庄の宇津城主、信長とは敵対関係にあり、山国庄を押領していた

*3:主語は信長

*4:未詳

*5:「藤」を衍字と考えれば内藤貞弘か。永禄12年4月2日丹波佐伯南北両庄の代官に任じられる。谷口克広『織田信長家臣人名辞典』274頁、吉川弘文館、1995年

*6:方針、決定

*7:主語は信長

*8:荘官

*9:

*10:荘園領主が直接支配すること

*11:「披露」はもともと「文書などを披(ひら)き露(あら)わす意味」でここでは伝えるの意

*12:立入宗継:金融業を営み、「禁裏御蔵職」の地位にあった

*13:山国庄の荘官

*14:年貢その他の徴収

*15:山城国愛宕郡小野庄

*16:小野庄に隣接し「小野細川」と一括されることもある

*17:下線部は割註

*18:

天正8年2月3日羽柴藤吉郎百姓仕置条々(木札)を読む

この制札は天正8年1月17日に播磨国三木城を攻略した直後に発給されたもので、しばしば話題にのぼる史料である。

 

 

 

(木札)

    条々

一、さい/\*1百姓早けんさん*2すへき事、

一、あれ地ねんく*3、当年三分二ゆうめん*4、三分一めしおく*5へき事、

一、さくもう*6いせん*7たちかへり*8百姓等、いとなみ*9ひやく*10あるましき事、

  付あれ地之百姓共つくりしき*11ニすへき事、

右不可有相違者也、仍而如件、

  天正八年

   二月三日  

藤吉郎(花押)      

 (充所記載なし)

            

『豊臣秀吉文書集 一』217号文書、72頁。『中世法制史料集 武家家法Ⅲ』950号、247~248頁。

  

 

(書き下し文)

    条々

一、在〻百姓早く見参すべきこと、

一、荒地年貢、当年三分二宥免、三分一召し置くべきこと、

一、作毛以前立ち帰り百姓など、営み日役あるまじきこと、

  つけたり、荒地の百姓ども作職にすべきこと、

右相違あるべからざるものなり、よってくだんのごとし、

 

(大意)

    条々

一、郷村の百姓はただちに出頭すること。

一、荒地となった田畠の年貢は、三分の二を免除し、残りの三分の一を収納すること。

一、耕作前に帰村した百姓などは、日雇いなどで糊口を凌ぐことをしないように。

 つけたり、荒地となった郷村の百姓どもに耕作させるように。

以上のことに背いてはならない。以上。

 

「日役」、つまり日雇い稼ぎを禁じ、耕作するよう命じているところはのちの太閤検地の萌芽が見られ興味深い。日雇い稼ぎを禁じているということは、そういう需要があったことを示している。つまりそうした労働力を吸収する経営体があったとみられ、その経営主体は土豪や地侍であろうことは容易に推察される。秀吉は、すでにこの点に着目していたのかもしれない。

 

*1:在〻:郷村

*2:見参:下位の者が上位者に対面すること、また上位の者が下位の者の前に現れること。ここでは前者で帰村するように促す意味で使用していると思われる

*3:荒地年貢

*4:宥免

*5:召置:上位の者が持ってこさせる、つまり年貢を納めること

*6:作毛:耕作または作柄、ここでは状況的、時期的に考えて耕作の意味かと思われる

*7:以前

*8:立帰:百姓が戦乱を恐れて逃散していたことを推測させる

*9:営み:生業

*10:日役:日雇いで働くこと

*11:さくしき=作職:なお高知県のある地方では現在も「作職」を耕作権の意味で使用するという