日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

文禄2年8月21日島津義弘・久保宛安宅秀安書状を読む その1

前回までの書状を発した5日後、島津義弘・久保父子宛に安宅秀安はふたたび書き送っている。

  

  猶以、此状御父子様御一所ニよく/\御一覧候て、

  則火中可被成候、無其儀候へは、如此之儀、以来も

  難申入候、以上、

態申上候、拙者乗舩渡唐之刻、以書状具申入候つる、

一、幽斎御仕置之節、度〻の御朱印*1如此ニ候、則*2写進上申候、薩・隅・諸県悉寄*3破勘落候て、義久・義弘蔵納*4ニ可仕旨、此*5(闕字)御朱印、何も同御文躰迄ニ候、

 

(書き下し文)*6

わざわざ申し上げ候、拙者乗舩渡唐のきざみ、書状をもってつぶさに申し入れそうらいつる、

一、幽斎御仕置の節、度〻の御朱印かくのごとくに候、すなわち写し進上申し候、薩・隅・諸県ことごとく棄破勘落候て、義久・義弘蔵納に仕るべき旨、この御朱印、いずれも同じご文躰までに候、

 

(中略)

 

なおもって、この状御父子様ご一所によくよくご一覧候て、すなわち火中ならるべく候、その儀なくそうらえば、かくのごとくの儀、以来も申し入れがたく候、以上、

 

(大意)

当方は渡海のため船上から書状にて詳しく申し入れました。

一、細川藤孝の仕置が行われた際、しばしば秀吉様の御朱印が出されましたので、すぐさま写し取りあなた方御父子へお渡しいたしました。薩摩・大隅日向国諸県郡の給人知行地および寺社領などはすべて没収のうえ、義久・義弘の蔵入地とすべき趣旨はこの朱印状と同じ文言です。

 

(中略)

追伸、この書状御父子様御一緒によく御覧いただいたらすぐに火中に投じてください。もしそうしなければこのように懇切丁寧な書状を送ることは、今後一切いたしません。以上。

 

前回同様、島津領国の仕置がなかなか進まないようで、安宅の文面には苛立ちが見える。たしかに秀吉は島津宛に何度も似たような内容の朱印状を発している。おまけに追伸も嫌らしい。

*1:天正20年8月14日細川幽斎島津義久豊臣秀吉朱印状(「島津家文書之一」366号)をはじめとする仕置関係の朱印状

*2:すぐさま

*3:

*4:蔵入地、直轄地

*5:例の

*6:本来、文頭の「尚〻書」は最後に書くべきだが、分割して読むので便宜上最初の一つ書きの次に読むことにする

文禄2年8月16日島津義弘・久保宛安宅秀安書状を読む その6/止

一、幽斎*1下向候て、弃破勘落并ニ惣知行ニよき知行を被替取候事*2、悉跡書*3貴所御父子*4、治部少輔*5ニも可被見せ置由、先度我等中上*6仕候時、於名護屋*7ニ義久役人衆*8ニ堅申候*9処ニ、彼跡書于今不被取寄候、其上諸県之知行配当ハ、伊勢弥八*10具ニ被存候条、伊下入*11・拙斎*12不被存由候間、急度*13弥八方へ被仰付*14、彼跡書きと/\*15京都へ薩摩ゟ直ニ早〻慥ニ可上置由、則弥八ニ堅可被仰付候*16、此段専一ニ候、薩隅之跡書*17ハ、是ゟ急取寄可申才覚*18仕事ニ候、其方へも跡書こと/\く被召寄、御一覧可然候、則只今ニ御父子へ不被懸御目ニ事、弥八并ニ其外老中*19さりとてハ/\*20不届仕立*21、沙汰之限*22ニ候、いかゝ思召候哉、弥八方ハ若*23候、肱枕*24第一無沙汰*25と存候、

一、此状内*26、我等不残心底*27申上候、御父子御一所ニ御一覧候て、即必〻火中可被成候*28、無其儀候へ者、向後も如此具ニ申入事不可有之候、追〻可得御意候*29、恐惶謹言、

     八月十六日*30          秀安(花押)

  義弘様

  久保様

     参人〻御中

 

(書き下し文)

一、幽斎下向候て、弃破勘落ならびに惣知行によき知行を取り替えられ候こと、ことごとく跡書貴所御父子、治部少輔にも見せ置かるべきよし、先度我等中上仕り候とき、名護屋において義久役人衆に堅く申し候ところに、かの跡書今に取り寄せられず候、その上諸県の知行配当は、伊勢弥八つぶさに存ぜられ候条、伊下入・拙斎存ぜられざるよし候あいだ、きっと弥八方へ仰せ付けられ、かの跡書きときと京都へ薩摩よりじかに早〻たしかに上せ置くべきよし、すなわち弥八に堅く仰せ付けらるべく候、この段専一に候、薩隅の跡書は、これより急ぎ取り寄せ申すべき才覚仕ることに候、その方へも跡書ことごとく召し寄せられ、御一覧然るべく候、すなわち只今に御父子へ御目にかけられざること、弥八ならびにその外老中さりとてはさりとては不届なる仕立、沙汰の限りに候、いかが思し召し候や、弥八方はかくのごとく候、肱枕第一無沙汰と存じ候、

一、此状内、我等残らず心底申し上げ候、御父子御一所に御一覧候て、すなわち必〻火中成らるべく候、その儀なく候へば、向後もかくのごとくつぶさに申し入ることこれあるべからず候、追〻御意をうべく候、恐惶謹言、

 

(大意)

一、藤孝が島津領国に下り、寺社領の没収や知行の割替を行うことについての文書をあなた方御父子(義弘・久保父子)や三成にお見せするように、先日わたしが一時帰国した際、名護屋にて義久の家臣たちに申し入れたところ、その文書をいまだに取り寄せておりませんでした。さらに日向国諸県郡の知行割について伊勢貞成は詳しく知っていました。しかし伊集院久治や新納忠元は知らなかったとのことですので、貞成をきびしくお叱りになってください。またその文書を直接薩摩より京都へ急ぎ届けるよう貞成にお命じになってください。この件が第一です。薩摩・大隅に関する仕置の文書は、これから急ぎ集め、御一覧ください。つまりたった今まであなた方御父子にこれらの文書をお見せしなかった、貞成やそのほかの老中たちのこのような仕打ちはまことにもって不届きで、言語道断です。如何思われますでしょうか、あなた方御父子もそうお思いになるでしょう。貞成の方は以上のような有様で、川上忠智は怠慢の至りとわたしは思います。

一、この書状にわたしの本心をすべて申し上げました。御父子ともども御覧になった後はすぐに火中に投じて燃やしてください。もしそうしなかったら、今後二度とこのように詳しくご説明することは致しません。詳しくはお目にかかった際にでも。謹んで申し上げました。

 

 

 

文末の安宅の指示通りにこの文書を火にくべていたら現存していないので、島津義弘・久保父子の判断はとてもありがたい。

 

内容はやや込み入っているが、家督を譲る義久(在国)家臣と譲られる義弘・久保(出陣中)家臣側の意思疎通が不十分であることが安宅を怒らせたらしい。この点については、岩川拓夫氏が「幽斎の仕置によって、島津氏家臣団の内部は、義久と義弘の家臣の溝が深刻化していった」*31と指摘している。

藤孝が現地で仕置の監督を行っているが、文禄3年に行われた数十人も検地奉行を京都から派遣するような豊臣政権主導の仕置とは異なり、島津氏の裁量に委ねている点は大きく異なる。そのせいかなかなか仕置が思うように進まず、三成家臣の安宅がこのような嫌みったらしい書状をよこしたのだろうか。

*1:細川藤孝

*2:家臣に与えたすべての知行地を「望ましい」知行とすること

*3:藤孝の仕置を記した文書

*4:島津義弘・久保父

*5:石田三成

*6:国司が任期中に一時帰京する意から、ここでは大陸からの一時帰国と解した

*7:肥前国松浦郡

*8:義久の家臣たち

*9:厳命した

*10:貞成、義弘家老

*11:伊集院久治、島津家老中

*12:新納忠元、義久家臣、諸県を本貫とする

*13:きびしく

*14:「叱る」の尊敬語なので主語は義弘・久保

*15:素早く、必ず、是が非でも

*16:お命じになってください、「被」と「仰付」の間に闕字がないので主語は島津義弘・久保父子。あれば秀吉となる

*17:「彼跡書」が諸県郡の知行割に関する文書で、それとは別の薩摩・大隅の知行割を記した文書

*18:工夫

*19:島津家の老臣・重臣

*20:強調・感動をあらわす、「いくら何でも」

*21:物事のなされよう、一部始終

*22:言語道断

*23:カクノゴトク

*24:川上忠智、義弘家老

*25:怠慢

*26:この書状

*27:本心、嘘偽りのないこと

*28:読後に火中に投じて灰にすること

*29:お目にかかった時にでも

*30:文禄2年

*31:同「苦難の時代に変革を成し遂げた「三殿」の支配体制とは?」219頁、新名一仁編『中世島津氏研究の最前線』洋泉社歴史新書、2018年

文禄2年8月16日島津義弘・久保宛安宅秀安書状を読む その5

一、大隅・諸県*1之分ハ、最前丸目方*2ニ給*3候、如御状*4、弃破勘落*5之分、悉御蔵入*6ニ可被召置通、丸目時之御状之通急御国へ被仰遣可然候、先度者御遠慮候様ニ*7と申入候へ共、其段ハ我等分別ちかひ*8にて候、たとい薩隅諸県悉弃破勘落分可召取通、治部少輔ニ雖被仰合*9候、先大隅・諸県之分者、丸目ニ持せ給候如御状、早〻御国へ可被仰下事、尤可然存候、

 

(書き下し文)

一、大隅・諸県の分は、最前丸目方に給い候、御状のごとく、弃破勘落の分、ことごとく御蔵入に召し置かるべき通り、丸目時の御状の通り急ぎ御国へ仰せ遣され然るべく候、先度は御遠慮候ようにと申し入りそうらえども、その段は我等分別違いにて候、たとい薩・隅・諸県ことごとく弃破勘落分召し取るべき通り、治部少輔に仰せ合せられ候といえども、まず大隅・諸県の分は、丸目に持たせ給い候御状のごとく、早〻御国へ仰せ下さるべきこと、もっともに然るべく存じ候、

 

(大意)

一、大隅日向国諸県郡は、先日丸目五右衛門尉にお持たせになった書状のように、家臣給地や寺社領を没収して、すべて蔵入地にするとの趣旨通りに早速国元へお知らせなされたこと結構なことです。前回はよくよくお考えになってくださいと申しましたが、それはこちらの考え違いでした。薩摩・大隅・諸県すべて没収すべきと三成と相談されたからといって、まずは大隅・諸県の没収を、丸目に持たせた書状の通りに急ぎ領国中にお触れになることが最善と考えています。

 

 

「弃破勘落」の件について、仮に三成と相談していたとしても、安宅は熟慮するように申し入れたことを撤回し、大隅と諸県の「弃破勘落」を急ぐよう申し入れている。

 

*1:日向国諸県郡

*2:島津家の使者丸目五右衛門尉

*3:人をお寄越しになる

*4:丸目五右衛門尉に持たせた義弘・久保の書状

*5:土地を没収する

*6:島津家直轄地

*7:よくよくお考えになるように

*8:考え違い

*9:ご相談になる

文禄2年8月16日島津義弘・久保宛安宅秀安書状を読む その4

一、治部少輔上洛仕候て、廿日経、跡ゟ*1御使者一人京都ニ被差上可然候、義久御隠居之儀、言上之上にて被仰出趣、彼御使者ニ可申下*2候、

一、義久、名護屋*3ゟ直ニ可有御上洛分*4ニ候、然時者、義久御隠居ニ付、(闕字)公儀被(闕字)仰出趣可有之候条、此段早〻貴所御父子*5被聞召届*6可然候間、旁以必御使者可被上置*7候、

 

(書き下し文)
一、治部少輔上洛仕り候て、廿日経ち、跡より御使者一人京都に差し上せられ然るべく候、義久御隠居の儀、言上の上にて仰せ出さる趣、かの御使者に申し下すべく候、
一、義久、名護屋より直に御上洛あるべき分に候、しかる時は、義久御隠居につき、公儀仰せ出さる趣これあるべく候条、この段早〻貴所御父子聞し召し届けられしかるべく候あいだ、かたがたもって必ず御使者上せ置るべく候、

 

(大意)
一、三成が上洛してから20日経ち、それ以前から使者をひとり京都に派遣され、もっともなことです。義久の隠居の件、上申した上で秀吉様からお認めになるという趣旨を、その使者に申し下すことでしょう。
一、義久が名護屋から直接上洛することになっています。その際に隠居の件について秀吉様よりご下命があることですので、この件について早くあなた方御父子もお知りになりたいことでしょうから、どちらにしても必ず使者を京都に残しておくようにしてください。

 

藤井穣治編『織豊期主要人物居所集成』(思文閣、2011年)74頁によれば、秀吉が8月15日名護屋を発ち9月4日伏見に到着していることから文中の「公儀」を秀吉と解した。

  

隠居は一度秀吉へ上申した上で、下命するという形式を取っており、勝手に隠居することは許されなかったようである。

 

*1:以前から

*2:お願いしたうえで命を受ける

*3:肥前国松浦郡

*4:つとめ、きまり

*5:島津義弘・久保父

*6:聞き届ける

*7:そのままにする、残す、「上置」で「上洛させたままにする」の意

文禄2年8月16日島津義弘・久保宛安宅秀安書状を読む その3

一、薩隅諸県当所務、御取ぬかし*1候ハゝ、又一郎様*2御家得*3を御請取候ても、京都御屋形作罷成ましく候、勿論久保御在京ニ物入可申候、其上義久御隠居分ニも、御知行可被遣候、自然*4何れ*5へ御行候共、又ハ朝鮮御陣被引取次第、大仏*6并ニふし見*7之御普請ニ、一稜*8御造作*9可参候、彼是以*10、薩隅諸県当所務、被召取御分別、一種ニ相究候、能〻御思案此時候事、

 

(書き下し文)

一、薩・隅・諸県当所務、お取り抜かしそうらわば、又一郎様御家得をお請け取り候ても、京都御屋形作り罷り成りまじく候、もちろん久保御在京に物入り申すべく候、そのうえ義久御隠居分にも、御知行遣わさるべく候、自然いずれへお行い候とも、または朝鮮御陣引き取られ次第、大仏ならびに伏見のご普請に、ひとかどご造作参るべく候、かれこれもって、薩・隅・諸県当所務、召し取らるべきご分別、一種にあい究め候、よくよくご思案この時に候こと、

 

(大意)

一、薩摩・大隅・日向諸県郡の今年の年貢納入をし損なえば、久保様が家督を継がれても、京都の屋敷を造ることはできないでしょう。もちろん、久保様が京都にいらっしゃるときはいろいろと物入りであるでしょう。その上義久殿にも隠居賄地を与えねばならないでしょう。いずれにせよ、高麗から陣を引き払い次第、方広寺大仏および伏見城の普請に、大いにお働きください。あれこれといっていないで、薩摩・大隅・諸県にある家臣の給地を没収するようお決め下さい。

 

久保の家督相続、京都の島津家屋敷の普請、久保在京中の費用、義久が隠居するために宛行わねばならない土地などにくわえて、方広寺大仏造立や伏見城普請など島津家への負担が重くのしかかることを理由に、安宅は「つべこべ言っていないで、すみやかに家臣の土地を没収して島津家直轄地にせよ」と述べている。安宅は三成の家臣で、秀吉からは陪臣にあたる。つまり島津家より格下なのであるが、このような文面の書状をしたためられるほどの権限を有していたらしい。

 

また、この時期の島津家(に限らずどこの大名も同様だろうが)は大陸に出陣中で、さらに大仏だの城だのの大規模な普請に駆り出され、その負担は相当なものであったろう。もともと台所不如意だったわけで、当然それは検地で「出目」を当て込むしかなかった。

 

それにしても、豊臣政権中枢が家臣給地の「勘落」=没収を強く迫っているのに対し、島津家はなかなか踏み切れない状況がうかがえる。それだけ、島津家家中が水平的な構造だったと考えられる。

 

*1:抜かし

*2:島津久保

*3:

*4:もし、万一

*5:久保が在京の節に物入りであることと、義久に隠居分の給地を与えること

*6:方広寺大仏、上棟が同年9月24日

*7:指月山に造られた最初の伏見城

*8:ひとかど、大いに

*9:ゾウサク、建築作業

*10:あれこれと文句を言ってないで