日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

文禄元年12月14日島津義久宛豊臣秀吉朱印状を読む

急度被仰遣候、其方事、鉄炮以下令用意、此方ニ所務*1等申付候とて相残奉公人共相改、悉召連無御渡海已前、来春*2高麗へ可罷渡候、最前雖相改申付候、可罷立者、不寄大小残居候者、猶以可被成御成敗候間、成其意、堅可申付候、留守ニ居候ハて不叶者ハ書立候て可申上候、随而兵庫頭*3・又一郎*4妻子、其外留守仕候者之妻子をも、同前ニ早々至于大坂可差上候、然者御扶持方可被下候間、上着*5次第、於大坂帥法印*6・松浦讃岐守*7両人ニ申届、人数等書付、右両人墨付取候て可申上候、御帰朝*8少之間之事候条、能々可申付候、猶浅野弾正少弼*9・石田木工頭*10・木下半介*11可申候也、

   十二月十四日*12(秀吉朱印)

      島津修理大夫*13とのへ

 

           『豊臣秀吉文書集 五』4349号文書、289~290頁

 

 

(書き下し文)

きっと仰せ遣わされ候、その方のこと、鉄炮以下用意せしめ、この方に所務など申し付け候とてあい残る奉公人どもあい改め、ことごとく召し連れ御渡海なき已前、来春高麗へ罷り渡るべく候、最前あい改め申し付け候といえども、罷り立つべき者、大小によらず残り居り候者、なおもって御成敗ならるべく候あいだ、其意をなし、堅く申し付くべく候、留守に居り候はで叶わざる者は書き立て候て申し上ぐべく候、したがって兵庫頭・又一郎妻子、その外留守つかまつり候者の妻子をも、同前に早々大坂にいたり差し上ぐべく候、しからば御扶持方下さるべく候あいだ、上着次第、大坂において帥法印・松浦讃岐守両人に申し届け、人数など書き付け、右両人墨み付き取り候て申し上ぐべく候、御帰朝少しのあいだのことに候の条、よくよく申し付くべく候、なお浅野弾正少弼・石田木工頭・木下半介申すべく候なり、

 

 

(大意)

そなたのことですが、鉄炮以下の武具を準備し、年貢収納に必要ということで大隅・薩摩に残した奉公人の数を調べ、全員連れ、秀吉様が渡海される前に、来年春に高麗へ渡海しなさい。最近調べ上げたといっても渡海できる者が、身分の高低にかかわらず、領国中にいたならば成敗に及ぶので、厳命しなさい。どうしても留守居として残す必要がある者については帳面にしたため上申しなさい。義弘・久保の妻子およびその他留守居にさせた被官の妻子を前と同様に大坂に差し出しなさい。そうすれば扶持米などを与えるので、大坂に到着次第、歓仲・松浦重政両名に申し出で、人数などを書き記し、両名の署名を添えて申し出でなさい。帰国は短期間のことですので、しっかりと命じなさい。詳しくは浅野長政・石田正澄・木下吉隆が口頭で伝えます。

 

大陸へ出兵中の義弘、久保父子の留守を預かる義久へ、領国中に残した奉公人を残さず渡海させるよう命じた朱印状である。「御渡海」とあるように秀吉みずから出陣する予定だったようである。その一方「大小によらず」出陣を拒む者もいたことがうかがえる。梅北国兼もその一人だった。

 

また、領国中に残す島津家中の妻子も、義弘や久保の妻子と同様大坂へ人質として差し出すよう命じている。その際の明細を差し出す際帥法印歓中・松浦重政両名のお墨付きが必要である旨述べている。両名とも天正13年頃の検地や年貢収納関係の文書に見える。次回、歓中が河内国観心寺と7ヶ郷の山問答で、浅野長政、一柳直末とともに仲裁した文書を読んでみたい。

*1:年貢の取り立て

*2:春は1~3月

*3:義弘

*4:久保、義弘の男子

*5:地方から都へ到着すること

*6:歓仲

*7:重政

*8:この「帰朝」は「御」とあるので秀吉の行動を指すが、まだ出陣していない。将来の予定を意味しているのだろう

*9:長政

*10:正澄

*11:吉隆

*12:文禄元年=天正20年

*13:義久

天正20年11月5日島津義久宛豊臣秀吉朱印状を読む

天正20年8月14日、島津義久宛に4通の朱印状が発せられた。そのうち2通はすでに読んだ。

 

http://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20190218/1550462717

 

http://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20190212/1549967042

 

秀吉は11月5日、島津領国中に滞在している細川藤孝島津義久にさらに朱印状を発給した。

義久宛を読んでみる。

 

其方台所方*1不如意*2旨、被聞召及候之条、大隅・薩摩両国寺社領事落取*3、蔵入*4ニ可被申付候、其方者神者*5候間、可為迷惑*6候へ共、従公儀*7被仰出事候間、更以非私候条*8、無其機遣*9可申付候、但立置度寺社事*10者相除、其外者被落取、台所方心安様ニ可被申付候、幽斎*11事も此度何迄も令逗留、相究候様ニと被仰遣候、御検地*12之儀、当年者所務ニ指相*13候ハん間、来年被仰付可被遣候条、其中者先右之分可然候、次大舩被為作候付て、楠木・杉事、於領国幽斎相談、見立書付を以可被申越候、猶石田木工頭*14、長束大蔵太輔*15可申候也、

    十一月五日*16(秀吉朱印)

        嶋津修理大夫入道とのへ*17

           「島津家文書之一」369号、360~361頁、「豊臣秀吉文書集五」4287号、263頁

 

 

(書き下し文)

 

その方台所がた不如意の旨、聞し召し及ばれ候の条、大隅・薩摩両国寺社領のこと落ち取り、蔵入に申し付けらるべく候、その方は神者候あいだ、迷惑たるべくそうらえども、公儀より仰せ出ださることに候あいだ、更にもって私にあらず候条、その気遣いなく申し付くべく候、ただし立ち置きたき寺社のことはあい除き、その外は落ち取られ、台所方心安きように申し付けらるべく候、幽斎こともこの度何までも逗留せしめ、あい究わめ候ようにと仰せ遣わされ候、御検地の儀、当年は所務に指しあいそうらわんあいだ、来年仰せ付けられ遣わさるべく候条、その中は先ず右の分然るべく候、次に大舩作らせられ候について、楠木・杉のこと、領国において幽斎あい談じ、見立て書付をもって申し越さるべく候、なお石田木工頭、長束大蔵太輔申すべく候なり、

 

 

(大意)

 

島津家の台所事情が逼迫していると聞き及んでいます。大隅、薩摩の両国の寺社領を没収し、直轄地にしなさい。そなたは信心深いので、途方に暮れていることだろうが、これは公儀による命であり、私的な事情からではないので、心配なく寺社に命じなさい。ただし、そのままにしておきたい寺社は除き、あとはすべて没収し、台所事情を安定させるよう命じなさい。幽斎にもいつまでも現地にとどまり、完遂するようにと命じました。検地は、今年は年貢収納に差し障りがあるので、来年に行います。まずは以上の件をしかるべく行いなさい。次に大船の製造については楠木、杉を幽斎とともに、見繕って書き上げなさい。なお詳しくは石田正澄、長束正家が申し上げます。

 

なお同日付で、幽斎宛にもほぼ同文の朱印状を秀吉は発している。

其地長々辛労候、仍大隅・薩摩両国寺社領事、義久立置度所者相除、其外者悉落取、①義久蔵入ニ可申付候、当年②御検地御奉行被遣候者、所務ニ指合候ハんと思召候之条、来年被成御検地可被遣候間(以下略)

 

            「豊臣秀吉文書集五」4289号文書、264頁

 

 

下線部①から本文中の「蔵入」が島津家直轄領であること、②から来年予定されている検地が秀吉の奉行*18を派遣して行われるものであることがわかる。この予定は実際には文禄3年にずれ込むが。

 

また3月から始まった対外戦争のため大船が大量に必要だったようで、島津家領国中の楠木、杉(幽斎宛では松も)を調べ上げ、書き付けるように命じている。

 

前回読んだ翌文禄2年2月の史料から、漁村から船頭水主が根こそぎ動員されたことを述べたが、この木材調達は山村へも動員が及んでいたことを示唆する。また、前回読んだ文書は吉川家文書にも残されている*19農山漁村に及ぶまさに総動員体制だったわけである。

 

*1:財政状況

*2:困窮してる

*3:没収すること

*4:島津家直轄地

*5:信心深い者

*6:途方に暮れること

*7:秀吉のこと、みずからを「おおやけの儀」=「公儀」と称する。対義語は「わたくしの儀」=「私儀」

*8:すでに「公儀より」と述べているのにたたみかけるように「私にあらず」と強調している

*9:「気遣い」=心配、懸念

*10:領地を持たせたままにしたい寺社、菩提寺などのこと

*11:細川藤孝

*12:「御」があるので島津家が行う検地ではなく、秀吉による検地を意味する

*13:「指合」=差し支えがあること

*14:正澄

*15:正家

*16:天正20年

*17:義久

*18:「御奉行」

*19:「吉川家文書之一」783号文書 https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0901/0750?m=all&s=0750

文禄2年2月5日島津義久宛豊臣秀吉朱印状を読む

 

 

 

急度被仰遣候、高麗へ召連候舩頭・かこ*1共相煩、過半死之由申越候、然者、其方浦〻ニ相残候かこ共悉相改、かミ*2ハ六十下ハ十五を限、可罷渡之旨、堅申付、相副奉行*3に可差越候、自名護屋*4舩を被仰付可被遣候、無由断可申付候、此時候間、不罷出族、至後日可被加御成敗*5、次自高麗為用所差戻候舟、早〻罷渡候様ニ、是又堅可申付候、猶浅野弾正少弼*6、長束大蔵大輔*7、木下半介*8可申候也、

   二月五日(秀吉朱印)

      嶋津修理大夫*9とのへ

                「島津家文書之一」 369号文書、361頁

 

(書き下し文)

 

きっと仰せ遣わされ候、高麗へ召し連れ候舩頭・水主ともあい煩い、過半死のよし申し越し候、しからば、その方浦〻にあい残り候水主どもことごとくあい改め、上は六十下は十五を限り、罷り渡るべきの旨、堅く申し付け、奉行をあい副え差し越すべく候、名護屋より舩を仰せ付けられ遣わさるべく候、由断なく申し付くべく候、この時候あいだ、罷り出でざる族、後日にいたり御成敗加えらるべく候、次に高麗より用所のため差し戻し候舟、早〻罷り渡り候ように、これまた堅く申し付くべく候、なお浅野弾正少弼、長束大蔵大輔、木下半介申すべく候なり、

 

 

(大意)

 

高麗へ連れて行った船頭・水主たちが病気になり、その大半が死亡したと申し出てきた件のこと。島津家領国中の浦々に残っている水夫の人数をすべて調べ上げ、上は60歳、下は15歳までの者を渡海させるよう命じ、奉行に連れだって出頭させるようにしなさい。名護屋からの船はこちらで手配しますので、油断のないようにしなさい。このときにかぎって、出頭しない者がいたならば、後日成敗を加えるものです。次に、高麗から用事のため戻ってきた船はすぐにまた高麗へ渡海するよう、これまた厳命すること。詳しくは浅野長政、長束正家、木下吉隆が口頭で述べます。

 

 

前年の天正20年(12月8日「文禄」に改元)に渡海させた非戦闘員である船頭や水主の多くが病死した。在陣中の島津義弘にとって補給路を断たれたわけで、秀吉にとっても見過ごすことのできない事態であった。そこで国許にいた義久に領国中の浦々の船頭・水主をすべて調べ上げ、15歳から60歳までの者を渡海させるよう命じたわけである。秀吉の船員動員は渡海だけでなく「其方分国中川渡舟事、集置入念申付、出陣人馬無滞相越候様」*10とあるように、内水交通にも及んだ。最前線から銃後にいたるまで総動員されたのである。石高を基準とした軍役体系により、全国土の大名から百姓*11以下の者までがひとつの兵営に組み込まれたといってもよい*12。注意したいのはこの文書に書かれている内容は、義弘から報告があり、その対応を義久に命じた時点での途中経過にすぎず、文禄の役が島津領国中にもたらした結果でないことである。戦況は刻々と変化しており、当然対応に時差が生じる。

 

本来渡海する船は大名が負担すべき軍役に含まれていたが、秀吉はこの時だけ船を用意させると義久に伝えている。島津家の台所事情は困窮をきわめており、例外的に認めたのであろう。また下線部に見られるように出頭を拒む船頭や水主もいたようで、在地には中央政権へ抵抗する者もいたようだ。前年の梅北国兼による一揆の衝撃の大きさがうかがえる。また、一時帰国している船も早々に追い立てていることから、生存していた船員たちにも厭戦気分が広がっていたのかもしれない。

 

15~60歳を青壮年扱いする規定は当時よく見られたが、これは事実上終身現役制を意味していた*13。また年貢諸役を納めるべき浦々に残された労働力は女性と子どものみとなる点も見逃せない。天正20年1月秀次により発せられた掟書*14で陣夫役として徴発された者の田畠を、郷村の責任において耕作させるように各大名に命じている。とくに荒廃田とならないよう注意していた。こうした事態が島津領国の漁村を襲ったわけである。秀吉の対外戦争が総力戦だったことを示す好例であろう。

 

*1:水主、船頭以外の船員

*2:

*3:「豊臣秀吉文書集五」3976号文書によれば「渡海船奉行」として早川長政、毛利高政、毛利重政が任じられている。また、3977号などに「舟奉行」として彼ら3名のほか石田三成、大谷吉継、岡本良勝、牧村利貞ら10名が見える

*4:肥前国松浦郡

*5:「御」は秀吉自身への敬意

*6:長政

*7:正家

*8:吉隆

*9:義久

*10:毛利輝元宛・小早川隆景宛、3951・3952号文書

*11:身分はそこに所属する社会集団が決めるという理解が近世史では有力である。また、村人だから即「百姓」身分というわけでもない

*12:高木昭作『日本近世国家史の研究』1990年

*13:日本人の平均寿命が60歳を超えたのは戦後である。また勤め人との比較に過ぎず参考程度だが、戦後の定年が55歳、1980年代に60歳に延びたことを考慮しても、事実上の終身現役制だったといえる

*14:「大日本古文書 吉川家文書之一」125号、92~93頁 

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文禄3年10月17日・同4年18月21日島津義弘宛豊臣秀吉知行方目録を読む

天正16年島津義久宛に与えられた在京賄料が、文禄3年、同4年に改めて義弘に与えられた。その記載例は以下の通りである。

 

     知行方目録

先高                  摂州豊嶋郡

一、千八百石                 栢野村

出米

  九拾壱石三斗四升             同村

(以下略)

                島津家文書之一 443号文書 434~436頁

 

下線部の「先高」は天正16年の知行充行の際の石高であり、「出米」は文禄3年に検地により新たに打ち出された石高である。その一覧を見てみよう。

 

Table.1 文禄3,4年の在京賄料  赤字は計算値

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Table.2 天正16年の在京賄料

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摂津国豊島郡栢野村のように「先高」に対して「出米」が5%程度の村から、同国能勢郡倉垣村のように127%に上る村までばらつきが多い。村ごとの比率をグラフにした。

 

Fig. 文禄3年 在京賄料 「先高」と「出米」の比率

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「先高」を超える「出米」が打ち出された村もいくつか見える。天正検地にくらべて文禄検地は相当厳密だったようだ。その原因として考えられるのは、①天正検地後新たに開発した田畠の検地帳への登録、②隠田の摘発、③従来の石盛の見直しなどであろう*1。その分村数は減らされたようである*2

*1:これらを知るには各村に残された検地帳を確認する必要がある

*2:table.2を参照されたい

文禄4年6月29日島津義弘宛豊臣秀吉知行方目録から知行分布図を作成する

文禄4年6月29日、石田三成らを奉行とする、日向・大隅・薩摩三国の太閤検地を施行後、島津義久・義弘らに知行目録が与えられた*1。なお、充所は義弘単独である。これを表にまとめた。

 

Table.1 文禄4年知行方目録帳

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                註:「計」は計算した合計石高で表記上の合計と130石強の誤差がある

 

島津義久・義弘直轄地がそれぞれ10万石、島津家の家臣に与えられた「給人領」26万7千石弱と寺社領3千石の合計46万7千石弱が島津家領国となる。

 

太閤蔵入地1万石の代官を務めるのが石田三成で、それとは別に三成に「私領」として6300石余が曽於郡内に与えられた。また、細川藤孝にも薩摩肝付郡内に3千石余が与えられている。

 

これを国郡単位に分けたのが次の表である。

Table.2 知行方目録国郡別分布

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大隅姶良郡内に太閤蔵入地と義弘直轄地が、曽於郡内に三成領と義久直轄地が、肝付郡内に藤孝領と義久直轄地が、始羅郡に藤孝領と伊集院忠棟領、そして日向諸県郡に義久直轄地と忠棟領が分布している。

 

これを地図上にプロットしたのが次の図である。

Fig.1 日向国諸県郡 国史大辞典」より作成

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Fig.2 大隅国 国史大辞典」より作成

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ただ、大隅国は郡域や名称に変遷が見られ、とくに「姶羅(アイラ)郡」と「始良(シラ)郡」のちの「姶良(アイラ)郡」は混同された*2。1095号知行方目録でも両者ともに「姶羅郡」とされている。

 

Fig.3 大隅国姶羅郡姶良郡  国史大辞典」より作成

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Fig.4 薩摩国 国史大辞典」より作成

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                   いずれも「国史大辞典」より作成

 

さらに郷村レベルでプロットした。

Fig.4 文禄4年日向・大隅薩摩国分分布

 

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地図が明治期のものなので、地名を拾いきれてはいない。ただ島津領国内に、太閤蔵入地や石田三成領、細川藤孝領が散在していたことは確認できる。さらに「給人領」27万石弱が加わるので一円的な領国とはいえないことはたしかである。

*1:「大日本古文書 島津家文書之二」1095号文書、386~394頁

*2:姶羅郡」『日本歴史地名大系』鹿児島県