日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

宝暦10年8月和泉国大鳥郡中筋村連署起請文を読む 大仙陵分水一件

(牛王宝印貼紙)
「左之書付之趣連判之者共
違背之輩ハ血判之通可蒙
神罰者(成脱カ)仍如件
     熊野牛王
      (割印)」

一、大仙陵*1分水*2石片*3下リ*4致出来候故、当年舳松村*5者旱損

  夥敷致出来候、依之分石平均致古法之通*6ニ相守申

  度、当村惣百姓所存相堅メ候、然共舳松者分石之

  片下り有之候事を幸之事と存、古法之通平均致候事、
  不得心之趣ニ相聞江候、此以後舳松之所存之通ニ

  致置候而者、毎年当村旱損場所ニ多致出来、惣百姓

  甚及難儀ニ可申外、去年も右樋*7入用銀*8等多差出し置

  候池水之儀、舳松村計為致自由*9可申道理も有之間敷

  存候、万一(闕字)御役所*10之及御沙汰候共、此事此

  侭ニ致置かたく候、尤村方之儀諸事他村江不洩様ニ

  相慎可申候、為後日庄屋年寄惣百姓申合連印之上
  血判致置申候、若右連印之内別心之者有之者神罰

  可蒙者也、
   宝暦十年辰八月       中筋村*11
                   仁右衛門(印)(血判)
                    (以下33名連印血判略)
      中筋村御会所*12

(書き下し文)

(牛王宝印貼紙)

「左の書付のおもむき、連判の者ども違背の輩は、血判の通り、神罰をこうむるべきものなり、よってくだんのごとし、
     熊野牛王
      (割印)」

ひとつ、大仙陵分水石片下り出来いたし候ゆえ、当年舳松村は旱損おびただしく出来いたし候、これにより分石平均古法の通りにいたし、あい守り申したく、当村惣百姓所存あい堅め候、しかれども舳松は分石の片下りこれあり候ことをさいわいのことと存じ、古法の通り平均致し候こと、得心せざるのおもむきにあい聞こえ候、これ以後舳松の所存の通りに致し置き候ては、毎年当村旱損場所に多く出来いたし、惣百姓はなはだ難儀におよび申すべきほか、去年も右樋入用銀など多く差し出し置き候池水の儀、舳松村ばかり自由にいたさせ申すべき道理もこれあるまじく存じ候、万一御役所の御沙汰におよび候とも、このことこのままに致し置きがたく候、もっとも村方の儀諸事他村へ洩れざるようにあい慎しみ申すべく候、後日のため庄屋・年寄・惣百姓申し合わせ、連印の上血判致し置き申し候、もし右連印のうち、別心の者これあらば神罰こうむるべきものなり、

 

 

これは大仙陵の堀から水を引く際の分配方式をめぐって、和泉国大鳥郡中筋村と同郡舳松村が争ったときに中筋村で作成された起請文である。下線部にあるように、この起請文の趣旨は村方のことは他村へ漏らさぬよう慎みますということである。ただ後述するように1世紀以上前の文禄4年に家数が125軒であることを考慮すると、この34名は中筋村の指導的地位にあったと考えることができる。そうすると文中の「惣百姓」の意味も百姓全員ではなくなってくる。

 

充所の「中筋村御会所」は庄屋の役宅と考えるより、寄合に出席できる構成員が集まる場と解した方がいいかもしれない。それにしても18世紀半ばに血判の起請文とは少々意外である。

 

両村の位置を示しておこう。

 

 Fig.1 和泉国大鳥郡中筋村・舳松村・湊村周辺図

f:id:x4090x:20190131154310j:plain

                  「日本歴史地名大系」大阪府より作成

Fig.2  延宝5年8月4日「中筋村田畑地並絵図」 

f:id:x4090x:20190131140055j:plain

             詳細 :堺市立図書館 地域資料デジタルアーカイブ

 

Fig.3 上図の拡大図1

f:id:x4090x:20190131140157j:plain

 「田出井」は田出井古墳のことで、反正天皇陵である。そこから用水を引いているが、荒廃地が比較的集中している。

 

Fig.4 拡大図2 

f:id:x4090x:20190131140243j:plain

図の①によれば、文禄4年に「石田杢殿」つまり石田正澄が検地し、村高が2583石余とされたが、30石分が「永荒」、つまり荒廃地となっており*13家数が125軒*14とある。「永荒」が東部に集中していることもわかる*15

 

また、イ、ロに見られるように舳松村分の土地が12町、253石強が中筋村の領域に「入組」んでいた。

 

以上、中筋村と舳松村の水争いを見てきたが、旱損地であったことによる。

 

大仙陵の用水利用を示す絵図は隣村の和泉国大鳥郡湊村にも残されている。またの機会に取り上げたい。

 

*1:仁徳天皇陵

*2:掘りから引いた水

*3:各村へ流れる水量を一定にする石と思われる

*4:舳松村へ多く流入するように仕掛をしたこと

*5:和泉国大鳥郡

*6:これ以前も度々水論が起き、その際に取り決めた法

*7:「石片」のこと、用水路の意

*8:用水路の維持管理費、百姓たちが負担していた

*9:勝手気ままに

*10:両村とも幕府領、堺奉行所支配なのでここでは堺奉行を指す。「御」があり、闕字扱いなのは徳川家への敬意を表している

*11:和泉国大鳥郡

*12:中筋村の庄屋役宅

*13:

*14:

*15:

近世における安閑天皇陵の土地利用 慶応2年10月23日陵敷地買上絵図

Fig 安閑陵敷地買上絵図

f:id:x4090x:20190128133719j:plain

                     『羽曳野市史』第5巻、口絵2

 

元治元年11月、河内国古市郡古市村庄屋2名、年寄3名、百姓代6名が信楽代官所へ「御陵鋪御買上直段書上帳」を提出している。上図はこれを可視化したものである。

 

安閑天皇陵(闕字)御陵之儀、今般御修補*1被為在、書面之地所御陵鋪地相成、御買上奉願上、尤右地所別帋証文写之通先年中者譲り渡仕、

 

(書き下し文)

安閑天皇陵、みささぎの儀、今般御修補あらせられ、書面の地所、御陵鋪地にあいなり、御買上願い上げたてまつり、もっとも右地所別紙証文写のとおり、先年中は譲り渡しつかまつり、

                      同上書673頁

 

この代銀は1反あたり銀554匁1分2厘、合計4貫904匁(石高7石8斗5合相当)と記されている。

 

注目すべきは下線部の「みささぎ鋪地にあいなり」で、この修陵事業以降は陵墓鋪地と「なる」という土地利用の変更を示している。

*1:文久の修陵

近世における「仁徳天皇陵」の呼称

 Fig.1 大正14年写「大仙陵絵図」(堺市立図書館地域資料デジタルアーカイブ

f:id:x4090x:20190119190117j:plain

http://e-library.gprime.jp/lib_city_sakai/da/detail?tilcod=0000000013-S0010999

 ③の左真ん中あたりに囲ってある部分がある。

 

裏書*1

大仙陵絵図  堺御番所*2之通南定右衛門*3

       享保年中之写

 

(書き下し文)

裏書き 大仙陵絵図 堺御番所のとおり南定右衛門写す、享保年中の写

 

(大意)

裏書き 大仙陵の絵図面、堺奉行所が描いたとおりに南定右衛門がこれを写し取りました。原本は享保年間に描かれました。

 

 

この絵図面は享保年間に堺奉行所が描かせたものをもとに、大正14年に写したものである。おおむね享保年中の仁徳天皇陵に対する認識が反映されているものと考えてよいだろう。

 

この絵を見た第一印象は思いのほか起伏に富んだ、険しい山というものである。空撮のゆるやかな丘というイメージになれた現代人には理解しがたいところがある。ただし、これを写実的に描いたと解釈するのは危うい。絵図は地図*4でなく、極度にデフォルメされることが当然だからである。これ以上絵図全体の印象から踏み込むことは慎むこととする。

 

さて、①「大仙陵 惣町歩 大概31町8畝6歩」と②「仁徳天皇御廟所 竹垣惣廻り60間」と書き分けられているところが興味深い。「大仙陵」は面積で、一方「仁徳天皇御廟所」は竹垣の周囲の長さで表現されており、この両者が区別されていたことがわかる。

 

また④には水門が描かれているが、堀は農業用水につながっていた。図の左にも用水路が描かれているが、こちらは狭山池*5までつながっている。

 

Fig.2 同上デジタルアーカイブ 「狭山池より大仙陵池迄用水路図」

f:id:x4090x:20190125193106j:plain

 http://e-library.gprime.jp/lib_city_sakai/da/detail?tilcod=0000000013-S0011028

 

また明治6年堺県令税所篤が地元に絵図を提出させている。

Fig.3  堺市史』第1巻、本編一、第21図版

f:id:x4090x:20190125193211j:plain

 堺市史. 第1巻 本編第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション 117コマ目

 

「印」と書かれているので絵図の写か控えである。原本は当然堺県へ提出されたであろう。①と②の文字の位置に注目されたい。「仁徳天皇」とある書き出しが「反別」よりも一字分上に位置する。これは貴人に対する敬意表現で擡頭と呼ぶ。

 

「絵図」とあるものの実測図に近いといえる。また「御廟」という表現も残されている。

 

最後に文久修陵の際に作成された絵図を見ておこう。

Fig.4 同上デジタルアーカイブ「小笠原様大仙陵拝参海岸順路図」

f:id:x4090x:20190126130941j:plain

http://e-library.gprime.jp/lib_city_sakai/da/detail?tilcod=0000000013-S0010982

 

②に「大仙陵御廟へ御参詣につき」とある。

③は「仁徳天皇陵」が「俗に大仙陵と言う」とあり、世間的には「大仙陵」として知られていたことがわかる。ちなみに履中天皇陵や反正天皇陵にも「俗に・・・ト言フ」と一般に呼び習わされていた呼称が書かれている。

 

追記 2019/01/26

外池昇「「文久の修陵」と年貢地」によれば仁徳天皇陵の修陵がはじめられたのは元治元年9月である。146頁*6

 

*1:絵図や裁許状などに書かれるお墨付き、根拠のあることを「裏書きする」と現在でも使う

*2:番所奉行所の意、堺奉行のこと

*3:未詳、おそらく絵師と思われる

*4:もっとも、地図もデフォルメされたものである

*5:河内国丹比郡

*6:「文久の修陵」と年貢地

「最近の江戸は正体不明の不審者が増えて治安が悪くなってきた」

元禄から享保頃にかけて活躍した儒学者がこのように述べている。荻生徂徠の「政談」だ。どこかで聞いたことのある話だが、江戸の人口増加、範囲の拡大は幕藩体制を揺るがすものであり、早期に対策を講じる必要があるとの指摘は、ある意味新鮮に聞こえる。早速読んでみよう*1

 

     出替り奉公人のしまりの事

当時*2出替り奉公人*3欠け落ち・取り逃げ*4多くして、人々難渋仕り候。これ以前は給金ならびに取り逃げの品々、引き負い*5の金高までを請人*6に掛かり、その請人また欠け落ちすれば請人の地主*7へかかる事ゆえ人召仕う*8もののためにはよけれども、付け送り*9などと申すようなる悪事はやりて、町の家持*10難儀したり。当時は請人の身代切り*11という事になる故、請人奉公人と申し合せ、同時に欠け落ちし、請人の家内の物をばかねて外へ運び出し、跡には鍋一つ名号*12一幅残し置きたると申すようなる事也。

  (中略)

元来出替り奉公人という事は、そのはじめ田舎より起りたる事也。田舎にて請に立つ*13者は百姓にて、何村誰支配*14の者という事慥なる事也。百姓なれば田地屋敷持て居る故、田地を棄てて欠け走るものに非ず。親類もその処に充満して、先祖より代々その処に居住する故、慥なる事也。それゆえ田舎にては御当地*15のようなる事はかつてなきなり。その法*16を持来り御城下*17にてとり行う故、行き届かざる事也。御城下の町人は、町々に人別帳あれども、店を逐い立て、また自分よりも店替えする事自由*18。元来他国よりのあつまりものにて、親類も御当地になく、根本来歴を誰も知らぬもの也。さて奉公人は皆田舎より新たに出たるものにて、請人とは元来よりの知人にてもなきに請に立つ事也。それゆえ人主*19を立つれども、人主また住処を定めず

 

引用した部分では「奉公人」という身元の不確かな者が増えてきて、金品を奪っていくことが目立つようになった、と述べている。原因は、保証人である「請人」もその当人を知っているわけでなく、それでさらなる保証人として「人主」を立てるが、彼らも居所が定まっていないからであるとしている。

 

保証人が「請人」だけでは十分でないので、新たに「人主」を加えたが、それでも身元不確かな者たちが村方から流れてくる様子がうかがえる。

 

昨今の「大江戸」ブームは人口増加を好ましいものと喧伝するが、同時代の儒学者には治安の悪化を招く忌むべきことと映ったことも知っておいて損はなかろう。

 

 

*1:辻達也校注、岩波文庫版、17~19頁

*2:現在

*3:1年または半年契約の奉公人

*4:持ち逃げすること

*5:借金

*6:身元保証

*7:「町」の構成員

*8:身近で仕事をすること

*9:奉公人と請人が共謀して取り逃げした金品の返済義務を、その店請人や家主に転嫁すること

*10:「町人」

*11:身代限り、債務は当人限り

*12:

*13:保証人になること

*14:どこの村の、領主、地頭は誰かということ

*15:「当地」に「御」がついているので江戸、「御台場」と同じ

*16:方法、やり方、田舎の方式

*17:江戸

*18:勝手に

*19:請人とならぶ奉公人の保証人

慶長10年8月10日殿中法度八ヶ条を読む 武家の品格

関ヶ原の合戦から5年後の慶長10年、以下のような条目が発せられた。差出人、充所ともに記載されていないが、当時江戸城に出入りする者たちの風俗がうかがえておもしろい。  

     条々
一、於殿中*1、形儀*2以下、慮外*3之体於有之者、見合*4次第其人*5江相断*6、可致言上*7事、
一、於殿中、一所に寄合、高雑談*8有之者申断、可致言上事、
一、御前*9近所におゐて、高声、是又其人に堅可申断事、
一、御給仕、并御取次之当番之人、御陰*10之御奉公*11令油断付而者、可致言上事、
    附当番之者、長袴*12を為持可相詰事、
一、囲碁、象戯*13、しなひ打*14、扇子きり*15、すまひ*16以下於有之、可致言上事、
一、御内書*17相調*18、惣而書物所*19へ寄へからす、并御用*20之儀にあらす

  して、硯をかすへからす、若濫の族有之は、堅可申断、自然令用捨者、祐筆*21

  も可為曲事、
一、祇候*22之人、御座敷其外、ちり*23なと仕儀、堅可申断*24事、
一、掃除以下、堅可申付事、
    附小便所之外、小便すへからさる事
右條々堅申渡、若於無承引者、急度可致言上、自然令用捨、以来*25漏聞候におゐては、権阿弥*26曲事たるへき者也、
    慶長十年八月十日*27

大日本史料』第12編の3 410~411頁

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1203/0410?m=all&s=0410

(書き下し文)

    条々
一、殿中において、形儀以下、慮外のていこれあるにおいては、見合い次第その人へあい断わり、言上いたすべきこと、
一、殿中において、一所に寄り合い、高雑談これある者申し断わり、言上いたすべきこと、
一、御前近所において、高声、これまたその人に堅く申し断わるべきこと、
一、御給仕、ならびに御取次の当番の人、御陰の御奉公油断せしむるについては、言上いたすべきこと、
    附けたり、当番の者、長袴を持たせあい詰むべきこと、
一、囲碁、象戯、しなひ打ち、扇子きり、すまい以下これあるにおいて、言上いたすべきこと、
一、御内書あい調え、そうじて書物所へ寄るべからず、ならびに御用の儀にあらずして、硯を貸すべからず、もし濫りの族これあらば、堅く申し断わるべし、自然用捨せしめば、祐筆も曲事たるべし、
一、祇候の人、御座敷そのほか、塵など仕る儀、堅く申し断わるべきこと、
一、掃除以下、堅く申し付くべきこと、
    附けたり、小便所のほか、小便すべからざること、
右條々堅く申し渡し、もし承引なきにおいては、急度言上致すべし、自然用捨せしめ、以来漏れ聞こえ候においては、権阿弥曲事たるべきものなり、

 

①は江戸城にて無礼な振る舞いをする者がいたらその者へ告げた上で報告しなさいというもの。

②は大勢で集まって大声で騒いだ者たちについて報告すべきことの意。

③は将軍などに聞こえるような場所で大声を出すなという条文。

④の付けたりは「当番」中は礼服を用いるようにとわざわざ注意せねばならないほど、服装の乱れが見られたこと。「服の乱れは心の乱れ」というが、500年前にはそう言われていたわけである。

⑤は囲碁将棋、チャンバラや相撲の禁止。

⑥は公私混同の禁止。

⑦は散らかすなという意。

⑧の「付けたり」にいたっては信じがたい文言が書かれている。

 

当時の武家、それも江戸城に登城する大名クラスたちの「品格」がうかがわれる。

 

それにしてもひどい。

*1:公方の屋敷、つまり江戸城

*2:ギョウギまたはカタギ、立ち居振る舞いの規則、身のこなし方

*3:無礼な、無作法な

*4:見つける

*5:慮外の振る舞いをしている者、当人

*6:相手の了解を得る、予告する

*7:上位の者へ報告する

*8:タカゾウタン、大声で無駄話をすること

*9:オマエまたはゴゼン、高貴な人

*10:主君、主人の御恩、具体的には召し抱えられていること

*11:主君、主人へ仕えること

*12:武家の礼装

*13:将棋

*14:竹刀で打ち合うこと

*15:扇子を刀で切ること

*16:争・相撲・角力、手向かうこと、相撲を取ること

*17:書状形式の将軍の直状

*18:御内書を持ったまま

*19:カキモノジョ、公文書を扱う役所

*20:公用

*21:右筆、現在の書記官

*22:伺候、貴人のそばに仕える、貴人へあいさつにうかがう

*23:

*24:拒絶すること、お断り

*25:用捨してから以後に

*26:「権の阿弥陀号」、誰を指すのかは未詳

*27:発給人、受給人とも記載なし