日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

文禄5年3月1日石田三成九ヶ条村掟を読む その2

 

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japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

 

一、ねんぐのおさめやうの事、田からざるまへに田がしら*1にて見はからい、免*2の儀相さだむべし、若きう人・百性ねんちかい*3の田あらハ、升づきいたし免さため可申候、なを其うへ給人・百性念ちかひあらば、その田をみなかり候て、いね三ツにわけ、くじ取いたし二ぶんきう人、一ぶんハ百姓さくとくに取可申候、壱石ニ弐升のくち米*4あげニはかり、ひとへだハら*5にし、そのぬし/\計申候か、又其身はかり申事ならぬものハ中*6のはかりてをやとひ、はからせ可申候、ますハたゞいま遣す判の升*7にて計可申候、さいぜんけん地衆の升ニふときほそき候間*8、中を取ためハせつかわす也、五里ハ百姓もちいたし可申候、五里の外二三里ハ百姓隙々*9すきに*10はんまい*11を給人つかハしもたせ可申候、此外むつかしき儀有ましき事、

        長浜市長浜城歴史博物館石田三成と湖北』52頁

 

 

(書き下し文)

ひとつ、年貢の納めようのこと、田刈らざる前に田頭にて見はからい、免の儀あいさだむべし、もし給人・百姓念違いの田あらば、升づきいたし免定め申すべく候、なおそのうえ給人・百姓念違いあらば、その田を皆刈り候て、稲三ツに分け、くじ取いたし二分給人、一分は百姓作徳に取り申すべく候、壱石に弐升の口米上げに計り、一重俵にし、その主々計り申し候か、またその身計り申すことならぬ者は中の計り手を雇い、計らせ申すべく候、升は只今遣わす判の升にて計り申すべく候、最前検地衆の升に太き細き候あいだ、中を取りためはせつかわすなり、五里は百姓持ちいたし申すべく候、五里のほか二・三里は百姓隙々すきに飯米を給人遣わし持たせ申すべく候、このほか難しき儀あるまじきこと、

 

 

(大意)

ひとつ、年貢納入の方法については以下の通りとする。田は刈り取る前に田のそばでよく見定めた上、年貢率を決定すること。万一給人と百姓で見方が異なる田があったなら、升ではかり年貢率を決めなさい。そのうえでまだ給人と百姓が納得しなければ、その田の稲をすべて刈り、稲を三つに分け、くじを引いた上で二分を給人の取り分、一分を百姓の作徳にしなさい。計る際、一石につき二升の口米を含めて計り、ひとえ俵にし、その作り主が計るか、計ることのできない者は仲立ちをする計り手を雇い、計らせなさい。升はこれから渡す花押の据えてある升で計りなさい。先ほど検地をおこなった者が使った升には大きい小さいといった幅があったので、中間をとったものを遣わせたところである。五里以内に住む百姓は自弁で取りに来なさい。五里からさらに二・三里に住む百姓は手隙のあるときに、飯米を給人が負担することとする。これ以外に面倒なことは禁止する。

 

 

「念違い」という文言にあらわれているように給人と百姓の間に、年貢率をめぐるトラブルが発生していたようだ。また、すべての稲を刈り取った上で念を入れたことに「くじ取り」を命じているのも、「公平性」をめぐって給人と百姓の間に緊張が生じていたためなのだろう。

 

ところで本文書からいわゆる「二公一民」と解釈するのは無理がある。そもそも年貢率が定められているのなら、このような掟書を下す必要はなく、また「念違い」も起きない。

 

「計り手」を雇うという点も興味深い。

 

さらに検地奉行らが使用した升の大小も問題とされている。一般に太閤検地によって度量衡の統一がなされたと理解されているが、実態はそうでもなかったようだ。なにより検地尺で名高い石田三成自身が認めているという点は象徴的だ。

 

 

*1:田のほとり、田頭=でんとう

*2:年貢率

*3:「念違い」考え違い、給人と百姓の間の認識の違い

*4:口米、領主に納める年貢を管理する代官が徴収する付加税

*5:一重俵

*6:「あいだ」の意

*7:石田三成の花押が据えられた升

*8:升に大小の差があるので

*9:ひまひま、あいまあいま

*10:他の文書では「ひま」「ひまのすき」

*11:飯米

慶長6年5月3日豊後国海部郡之内大佐井村・横田村宛加藤清正掟書を読む

 

 

          海部郡之内*1
            大佐井村
            横田村
    掟
一、当村之百姓隣郷と喧嘩口論并井論*2堺論*3
  切仕へからす、若他郷より非分之族於申懸
  者代官ニ申聞、公儀之沙汰たるへき事、
一、田畠不荒様ニ令耕作、永荒*4ニ至迄開作すへ
  し、年貢等万相定所すこしも相違有へから
  さる事、付逐電之百姓他郷ニ於在之者、代官
  ニ申聞、拘置所之代官ニ相理可令還住、又他
  郷ゟ逃散候百姓、一切かゝへをくへからさ
  る事、
一、年貢所当定所速令納所上者、自余*5のよこや
  く*6あるへからす候、代官請人申付といふ共
  非分之儀有之ましき事、
右条々相定所不可有相違、若違犯之族於在
之者可為曲事者也、
 慶長六年五月三日清正(花押)

 

(書き下し文)

    掟
ひとつ、当村の百姓、隣郷と喧嘩・口論ならびに井論・堺論一切つかまつるべからず、もし他郷より非分のやから申し懸くるにおいては、代官に申し聞け、公儀の沙汰たるべきこと、
ひとつ、田畠荒れざるように耕作せしめ、永荒にいたるまで開作すべし、年貢などよろずあい定むるところすこしも相違あるべからざること、つけたり逐電の百姓、他郷にこれあるにおいては、代官に申し聞き、拘え置く所の代官にあいことわり還住せしむべし、また他郷より逃散候百姓、一切拘え置くべからざること、
ひとつ、年貢所当定むるところ、速やかに納所せしむるうえは、自余の横役あるべからず候、代官・請人申し付くるというとも、非分の儀これあるまじきこと、
右の条々あい定むるところ相違あるべからず、もし違犯のやからこれあるにおいては、曲事たるべきものなり、

 

 

(大意)

    掟
ひとつ、当村の百姓は、隣郷の百姓と喧嘩・口論、用水相論・境相論と称して自力を発動してならない。もし他郷から言いがかりをつけてくるようなことがあれば、代官に注進し、公儀の沙汰を仰ぐこと。
ひとつ、田畠は荒れないように耕作し、永荒にいたるまで開墾しなさい。年貢など定めたことはすべてその通りにつとめなさい。つけたり、逐電した百姓が、他郷にいた場合は、当村の代官に注進し身柄を拘束し、その百姓をかかえている村の代官に告げた上で還住させなさい。また他郷から逃散してきた百姓を当村に一切置いてはいけない。
ひとつ、定められた年貢・所当、速やかに納めたうえは、その他の課役はあってはならない。代官や請人が命じたとしても、納めてはならない。
右の通り定めたので間違いのないようにしなさい。もし背く者がいたならば、罪科である。

 

 

一条目は中世以来の自力救済を禁じ、「公儀之沙汰」で村同士の争いを解決するように命じている。

 

二条目では、検地などで「永荒」とされた土地にいたるまで開墾して耕作するよう命じている。当然年貢諸役を課すわけで、徹底した在地支配といえる。また「付けたり」で逃散した百姓の扱いを定めているが、それぞれの土地を支配する「拘置所之代官」に断るよう定めている。これも村の自力で還住させることを禁じ、「公儀之沙汰」によるべしとしたものといえる。

 

三条目では、「横役」と呼ばれる「私的な」課役を禁じている。

 

この掟書の基本方針は中世的な自力救済の否定と、「公儀之沙汰」という文言に象徴される近世的な原則である。

 

 

豊後国海部郡関係図

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                 「日本歴史地名大系」佐賀県より作成

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                       Google Mapsより作成

 

*1:東京大学史料編纂所大日本史料総合データベース「史料綜覧」

*2:用水相論

*3:村境相論

*4:検地などで長期にわたって荒れ地とされた土地

*5:爾余、そのほか

*6:横役

天正9年12月4日丹波国桑田郡宇津領明智光秀年貢米請取状を読む

 

 

納宇津領内*1年貢米之事*2

   参石者        黒田*3

  合                両所分并

   壱斗五升者夫米也   瀬龍*4

右、攸*5請取如件、       (花押)*6(黒印)

  天正九年十二月四日

 

(書き下し文)

    納宇津領内年貢米納めのこと、

合わせて参石は黒田・瀬龍両所分ならびに、一斗五升は夫米なり、

右、請け取るところくだんのごとし、

 

(大意)

宇津領内の年貢米収納のこと、合計3石は黒田・芹生両村分の年貢米として、1斗5升は夫米として請け取りました。以上。

 

 

 

 

史料集では「書状」とするが、当ブログでは年貢米請取状とした。近世に入ると、年貢関係文書は年貢割付状や年貢皆済目録など定型化していくが、中近世移行期は形式が定まっているとはいえない。「如件」との書き止め文言からは書状といえず、さしあたり「請取状」とした。『新修亀岡市史資料編』第二巻も「年貢米請取状」としている*7

 

本年貢に対する夫米の割合は、5パーセントになる。

 

これらの村々は山国庄に属していた。下に位置関係を示しておく。

 

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                 「日本歴史地名大系」京都府より作成

 

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                           「国史大辞典」より作成

 

 

*1:丹波国桑田郡、宇津頼重が支配していた荘園

*2:藤田ほか編『明智光秀』111号文書

*3:桑田郡黒田六ヶ村、下黒田・黒田宮・上黒田・片波・灰屋・芹生

*4:芹生、黒田六ヶ村のひとつ

*5:「ユウ」または「トコロ」、意味は在所、

*6:光秀

*7:同書43頁

天正9年9月27日河瀬兵部丞・今井郷惣中宛明智光秀書状写を読む

 

 (追筆)*1

 「端書無之、」*2

当在所*3之事、去年任(闕字)仰出旨*4、土居構*5崩之、国次*6*7土民由、尤神妙候、其段弥於無相違者、重而違乱族不可有之候、陣取等堅可令停止、宗及*8別而断*9之儀候之条、自今以後、不可有疎意*10候、猶(数字破損)藤田伝五□□□(可申候カ)恐々謹言、

 天正□□(九年)    惟任

  九月廿七日        光秀(花押影)

    河瀬兵部丞*11殿

    今井郷*12惣中

 

(書き下し文)

 

当在所のこと、去年仰せ出ださる旨にまかせ、土居構これをくずし、国なみ土民に准ずるよし、もっとも神妙に候、その段いよいよ相違なくにおいては、重ねて違乱のやからこれあるべからず候、陣取など堅く停止せしむべし、宗及別して断りの儀候の条、自今以後、疎意あるべからず候、なお藤田伝五申すべく候、恐々謹言、

  端書これなし、

 

 

(大意)

今井郷のこと、去年信長様が仰せになったとおり、郷の土塁などを壊し、ふつうの郷村なみとするとのこと、まことに結構なことです。武装を解いたことについて異議を申し立てる連中が出ないようにしてください。軍勢が陣取りすることはやめさせます。今井宗久が詫び言を申していますので、今後も守ってください。詳しくは藤田伝五が申し上げます。謹んで申し上げました。

 追伸はありません。

 

 

この史料集では天正9年と読むが、永島福太郎、奥野高廣両氏は天正3年とする*13後者の場合「去年任仰出旨」は天正3年11月9日今井郷惣中宛織田信長朱印状をさすが*14前者ならば大坂本願寺との和睦のことを指す。ただ、奥野氏は天正2年の、光秀による今井町への武装解除の命令とするが、闕字に留意されていないうえ、尊敬の「被」が問題となる*15

 

今井郷は他の郷村と異なり、 土塁をめぐらして防御性を高めたものであったようだ。また今井郷と光秀との間に「宗及」という仲介人がいたこともわかる。

 

 

 

天正3年11月9日今井郷惣中宛織田信長朱印状


当郷事、令赦免候訖、自今以後万事可為大坂同前、次陣取并乱妨・狼藉等、堅令停止之状如件、
  天正
    十一月九日    (信長朱印)
       今井郷惣中
    (書き下し文)
   当郷のこと、赦免せしめそうらいおわんぬ、自今以後万事

   大坂同前たるべし、次に陣取りならびに乱妨・狼藉など、

   堅く停止せしむるの状、くだんのごとし、 

 

*1:藤田ほか編『明智光秀』110号文書、110頁

*2:尚々書がないことを断るために書いたもの

*3:今井郷

*4:闕字があることから信長の仰せ。詳細は本文で

*5:土塁などで武装した構築物

*6:大和国の平均的な習慣

*7:なぞらえる、近づける

*8:今井宗久

*9:詫び言を言うこと

*10:疎んじること、ここではこの文書の趣旨を反故にすること

*11:今井兵部

*12:大和国高市郡本願寺門徒寺内町

*13:永島福太郎「今井氏及び今井町の発達」(1940年)https://doi.org/10.20624/sehs.10.1_75、奥野上掲書下巻、152頁

*14:奥野上掲書600号文書

*15:上掲書、152頁

歴史学を舐めている記事

 

またずいぶんふざけた記事を書いたものだ。

 

www.nishinippon.co.jp

 

要点をいくつか挙げておこう。

 

1.「逆説」の魅力は、歴史を別の角度から見ることによって「通説」とは異なる事実をあぶり出す(ところにある)

 

2.歴史研究の多くが、現代人の価値観によって進められている

 

3.肯定的な記録が残っていない

 

 

 

まず第一点。別の角度、視点から史料を読み直すのが歴史学といういとなみであり、「通説」をたんに継承することはそもそも歴史学ではない、別の何かである。歴史学とは何かを知らずに難詰するのは筋違いである。

 

また史料を根拠とせずあぶり出されるところの「事実」とはなんだろうか。意味がわからない。

 

第二点。現代的な価値観で解釈してはいけないことはイロハに属することである。そもそも歴史学が歴史を対象とするのは、それぞれの時代固有の社会構造や文化などをあきらかにするためであり、そうでなければ時代区分や時期区分はできず、たんに過去の出来事を羅列したに過ぎないことになる。過去の出来事と歴史的事実を区別できないものを歴史とは呼ばない。

 

第三点。史料が残されているかどうかは偶然によるし、未発掘のものもまだまだ多いので、決めつけることはできない。また史料批判について触れられていないため、意味するところが明らかでない。

 

本文中で「批判」しているつもりの対象は歴史学研究でなく、「歴史研究」としているので、歴史学として反論する必要はないのかも知れないが。