日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

年未詳1月7日毛利輝元宛徳川家康書状を読む

 

 

www.hokkaido-np.co.jp

 

 

www.sankei.com

 

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(折紙)

珎敷両種送

給祝着之至候

猶榊原式部太輔

可申候条令右(省カ)略候

恐々謹言

 正月七日 家康(花押)

  安芸中納言殿

(書き下し文)

珍しき両種送りたまい、祝着のいたりに候、なお榊原式部太輔申すべく候条、省略せしめ候、恐々謹言、

*珎:「珍」の異体字

*榊原式部太輔:榊原康政

*安芸中納言毛利輝元

(大意)

素晴らしいものを二種類お贈り下さり、喜びの極みに存じます。なお詳しくは榊原康政が申しますので、略式のお礼のみにて失礼します。謹んで申し上げました。

 

 

2018年4月13日追記

「両種」についてご教示いただきました。詳細はこちら

 

 2018年4月16日追々記

読み誤りのご指摘がありましたので、訂正しました。

 誤「右」

 正「省」

 

https://twitter.com/kojima_sakura/status/985812192074252288

 

2018年4月17日追々々記

さらにご指摘いただきました

 

 

参考までに史料編纂所の電子くずし字字典の「省」と「右」を掲げておきます

 

「省」 

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「右」

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http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller

年月日未詳古野与五右衛門宛岡部十左衛門書状を読む???

 

以下の記事に掲載された文書を読んでみる。

 

www.shinmai.co.jp

www.hokurikushinkansen-navi.jp

 

 

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写真は後者を使用した。なお、右端に綴じ紐が見える。もともと別々に作成された文書を、のちに何らかの利用目的で綴じられた文書を「綴」(つづり)と呼び、あらかじめ冊子体として作成された「冊」「帳」などと区別する。「綴る」という行為は現在のファイリング、あるいはPC上でのフォルダへの分類と同じである。ただし「分類」は同時に元の状態を乱すことと同義なので、のちのちの検索に必ずしも役に立つわけではない。

 

この2つの記事はひとつの「綴」の、別々の書状を見て書かれている。差出人が「佐藤兵部」、「岡部十左衛門」と異なっているからだ。

 

 

一、大坂七日八日之首尾
有まし伝言候、物語申候
にて互ニ失念も有之歟、
無覚塚之由、被預御状候、
少も無失念、其時分迄
御家中縁勘定、其外ニも
古奉輩衆御咄置申ニ付
何共失念有之間敷候、

 

(書き下し文)

ひとつ、大坂七日八日の首尾あらまし伝えもうし候、物語り申し候にてたがいに失念もこれあるか、おぼつかなきのよし、御状預けられ候、少しも失念なく、その時分まで御家中勘定により、そのほかにもいにしえの奉輩衆お咄し置き申すにつき、なんとも失念これあるまじく候、

 

*無覚塚:無覚束「おぼつかなし」

 

*御家中勘定:論功行賞のことか

 

*奉輩衆:「朋輩衆」「傍輩衆」、仲間たち

 

年未詳7月28日松室名主百姓中宛滝川一益書状を読む

 

群馬県立博物館『織田信長上野国』展示図録2018年、53号文書、55頁、119頁(革嶋文書)

 

(折紙)

今度月読分

松室之義革嶋

被仰付候処、松室

并百性退出之由候、

曲事候、然者当郷

彼者共於許容仕候ハ

可有御成敗之由被仰

出候、其上預物在之

ハ革嶋かたへ持可遣候、

恐々謹言、

     瀧川

 七月廿八日 一益(花押)

松室在所

  名主百性中

*月読:松尾月読神社(現京都市西京区)。月読神社の社領をめぐってしばしば相論があったようで、天文4、5年頃には禰宜職と社領をめぐって松室宮千代と千々代が争っている。永禄5年には「一職進止之地」として幕府から当知行を安堵され、同7年には上野村西京区)の百姓から買得した土地も徳政令を免除されている(「日本歴史地名大系・京都府」)。

*革島文書についてはこちらを参照

古文書解題 「か」から始まる文書/京都府ホームページ

また革島館についてはこちら

http://www.kyoto-arc.or.jp/news/chousahoukoku/2009-6honbun.pdf

*松室:西京区松室

*革嶋:山城国葛野郡川島郷を本拠とする国人領主

*退出:貴人の前や役所などから引きさがって帰ること、その場からさがること。ここでは逃散すること。

*預物:質物

(書き下し文)

このたび月読分、松室の義革嶋仰せ付けられ候ところ、松室ならびに百性退出のよし候、曲事に候、しからば当郷かのものども許容つかまつり候においては御成敗あるべくのよし仰せ出でられ候、そのうえ預物これあらば革嶋方へ持ち遣わすべく候、恐々謹言、

(大意)

このたび月読神社社領の松室郷支配を革嶋に仰せ付けらた。しかし月読神社の祢宜や百姓が逃散したとのこと、まことにもってけしからんことである。松室郷としてかれらを見逃した場合は成敗が加えられるとの信長様のご命令である。さらに質に入れたものがあれば革嶋に渡しなさい。

 

 

年代比定はされていないが、展示、図録では花押の形から元亀3年に配列している。ただし、それ以上は述べていない。

 

文書の宛所が「名主百姓」=有力農民であることから、逃散したのは困窮した下層の百姓であろう。秀吉政権以後は、帰村を促すことに腐心するが、この時期の信長は厳罰主義だったようだ。文末の文言からも、徳政による救済はせず、小農自立や維持などの方針は見られない。

 

市(いち)とは対照的に郷村はほとんど視野に入っていないようだ。また郷村の自治的行動に対しても釘を刺している。

 

他の史料とあわせて検討すれば、興味深い議論ができるかも知れない。

 

文書(もんじょ)、記録、編纂物の概念図

文書(もんじょ)は(1)発給人(2)受給人(明示されていない場合も多い)(3)文書の内容(4)日付の四要素を要件とする。また、文書は、文書の内容を発給人から受給人に単に伝えるのみならず、なんらかの行為をともなっている。命令からお礼、時候のあいさつまで、発給人が受給人にたいし働きかけを行うために作成されたもので、花押や朱印を据えることで「効力」が発生するものも多い。

 

この効力をもつ、という点で、単なる文字記録以上の意味を持つ。

 

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商家や地主の家に伝わる「大福帳」や「金銀出入帳」「万覚帳」などの経営帳簿も文書に入る。

 

ちなみにこれらはコスパが最悪だ。自分や家族、奉公人が読めればよいというわけで文字はくずしまくるし、意味不明な符丁のような記号も頻出する。そして何十冊も読んで表ひとつができあがるという、苦労した割に報われないことが多い。ブログ主も挫折して、すぐに方向転換した苦い経験を持つ。

 

 

日記などの記録類は、有職故実を伝える目的を持った公的側面が強く、個人の覚書ではない。

 

「~~と日記には書いておこう」という発想はすぐれて現代的なもので、貴族や僧が同様に書いていたわけではない。伝聞情報ものちに根拠のない「でまかせ」であるとわかれば、その旨を記すなど正確性につとめている。もちろん、それは十全なものではない。したがってさまざまな史料をつきあわせる「史料批判」という作業が不可欠になる。

 

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「歴史は勝者の歴史である」とよくいわれる。この場合の「歴史」が指すものの多くが編纂物である。編纂物は下記のようなプロセスを経て編まれる。

 

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天正8年9月1日間嶋兵衛尉宛羽柴秀吉知行宛行状を読む

 

記事に掲載された文書を読んでみる。

 

www.ehime-np.co.jp

 

www.yomiuri.co.jp

 

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明石郡以平野内
弐千石之事、相添
小帳進之置候条、無
相違可有御知行候、
御忠節次第、弥可
申談候、恐々謹言
    藤吉郎
 九月朔日 秀吉(花押)
 間嶋兵衛尉殿

 

(書き下し文)

明石郡平野の内をもって二千石のこと、小帳あいそえこれをまいらせ置き候条、相違なく御知行あるべく候、御忠節次第、いよいよ申し談ずべく候、恐々謹言

 

*明石郡平野内:播磨国明石郡平野庄

 

*小帳:知行目録カ

 

*間嶋兵衛尉:未詳

 

(大意)

明石郡平野庄のうちから二千石を宛行う。