豊臣秀吉文書集に関して、その間の事情を簡潔にまとめられているのでぜひご一読いただきたい。信長、家康発給文書は刊行されて久しいが、秀吉文書集の出版がなぜ一大事業であるのかを感じられるコラムである。
東京大学史料編纂所「日本古文書ユニオンカタログ」「古文書フルテキストデータベース」「大日本史料総合データベース」「近世編年データベース」「維新史料綱要データベース」「近世史編纂支援データベース」で弘化年間の西郷吉之助文書を検索したが見つけられなかった。そこでここで書き起こしてみる。
(乍恐以書付奉願上候)
此侭ニ而者早晩百姓悉根絶者必定ニ候、日々之糧ニ茂事欠候而、如何ニ出精働候得共重キ年貢納候事不能候、其故ニ娘ヲ売候者茂有之候、田畑ヲ捨逃散百姓茂数多有(之脱ヵ)候、
(書き出し文)
このままにては早晩百姓ことごとく根絶するは必定に候、日々の糧にも事欠き候て、いかに出精働きそうらえども、重き年貢納め候ことあたわず候、そのゆえに娘を売り候者もこれあり候、田畑を捨て逃散する百姓もあまたあり候、
おまけ
1.調所広郷の「大働き」
藩の財政を立て直すため、1827年に500万両の負債を無利子250ヵ年賦としたことは高校の教科書にも載っている。250年後というと2076年頃になる。まだ60年近く先のことだ。
2.「満佐」ではなく 「まさ」では?
「由羅」も同断 「ゆら」?
3.隠田 おんでん/かくしだ:戦国大名も隠田摘発を目的として検地を行ったように(「おんな城主直虎」の隠し里も同様)、律令制施行以降しばしば見られる現象。
BS放送で西郷隆盛関係の文書が紹介されたようだ。文書の内容に触れずじまいだったので、ここで読んでみる。
覚
一、金壱万八千両七百五拾両也、 内千両入拾弐箱
同千弐百五十両之箱
同八百枚入外箱
同九百枚入尽箱
同五百枚入之箱
〆拾九箱御封印之侭
一、同壱万五千七百八拾三両也、 鉄炮含薬代
全〆
二口
〆金三萬四千五百三拾三両也、
右之通無利足ニ而慥ニ預置申処相違無御座候、御入用之節者通表を以何時ニ而茂相渡可申候、仍而預一札如件、
慶應四年辰七月 本間正七郎(印)(印影に見せ消ちあり)
アカハネ
代 文蔵殿
同 清次郎殿
船宿
永田茶右衛門殿
(書き下し文)
覚
ひとつ、金 一万八千両七百五十両なり、
うち千両いり十二箱
(内訳略)
ひとつ、同じく 一万五千七百八十三両なり、 鉄炮丸薬代
すべてしめて
ふたくちしめて金三万四千五百三十両なり、
右の通り無利足にてたしかに預かり置き申すところ、相違ござなく候、御入用の節は通表をもって何時にてもあい渡し申すべく候、よって預かり一札くだんのごとし、
三万四千両もの大金を無利息で預けるところが大物たる所以だろうか。千両箱で12箱を含めて全部でとあり、「十九箱御封印のまま」とあるところから現金が実際に動いたようだ。大八車で運んだのだろうか。しかも「鉄炮含薬代」と使い道まで明らかにしている。実におおらかだ。「通表」は意味不明だが、金などの小判ではなく、藩札か為替のような状況によっては紙くず同然となりそうなもののたぐいと思われる。
なお、裏面に裏判と呼ばれる、文書の信用度を高める文字が見え、また欧文が5~6行にわたって書かれている。欧米の商人と取引でもしたのであろう。
この文書が残っているということは、この証文の趣旨が未了だったことに、普通はなる。しかし、印影に見せ消ち、つまり抹消の書き込みがされていることから、何らかのかたちで「決着」を見たようだ。