こちらで光秀書状の原本写真と釈文がPDFファイルで公開されています。
またこちらもご参照ください。
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6月に以下の記事が掲載された。
これを全文翻刻してみよう。三行半はその名の通り、三行と半分で書かれるので、それも忠実に再現する。ただし変体仮名については、気分次第で通常の仮名に直したり、もとの漢字のままとした。
離縁状之事
其元義、我等妻ニ有之処、不縁ニ付
此度 離別いたし候上は、何方江嫁候共
聊差構無御座候、為後日一札相渡
申処、仍而如件、
市川三平
行光*(花押)
八代郡上岩崎村
勝右衛門殿妹
およねとの
*ここの「行光」は写真を見た限り、異筆と思われる
(書き下し)
離縁状のこと
そこもと義(儀)、われら妻にこれあるところ、不縁に付き、この度離別いたし候上は、何方え嫁ぎ候とも、いささかも差し構い御座なく候、後日のため一札相渡し申すところ、よってくだんのごとし、
差し構い:干渉すること
ちなみに、最近TVなどでさかんに「そこのくだりは~」という言い回しが使われるが、漢字では「そこの行は~」と書くので、三行半とセットで覚えておきたい。
「関ヶ原」という映画が好評で盛り上がっているようだ。そこでスケベ心から(新規参入のブログを目立たせるにはミーハーであることが第一)しばらく石田三成関連の史料を読んでいくことにする。若い女性に人気があると仄聞するが、それらのご期待に添えるものかは保証の限りでない。
年代未詳であるが、文禄年間(1592~1596)のものと推定されている文書を見てみよう。引用は長浜市長浜城歴史博物館『石田三成と湖北』14頁(2010年)による。闕字・平出は特に注意しない。
(折紙)
為御意急度申入候
一、日用取之儀、従去年堅被成御停止候処、諸国之百姓等田畠を打捨罷上候ニ付て、被加御成敗、所々ニはた者ニかけさせられ候、然者向後日用取召仕候族於有之者、とらへ可申上候、則召仕候者之跡職、訴人に可被下候旨、被仰出候条可被得其意事、
一、知行それそれニ被下候処、人を不相抱故、日用を雇候儀、曲事ニ思召候事、
一、御代官・給人対百性(姓)、若非分之儀申懸、故を以百姓逐電仕ニをいてハ、以御糺明之上、代官・給人可為曲事之旨候、恐々謹言
徳善院
二月十五日 玄以(花押)
長束大蔵
正家(花押)
石田治部
三成(花押)
増田右衛門尉
長盛(花押)
上坂八右衛門尉殿
御宿所
(書き下し)
御意として急度申し入れ候
一、日用取の儀、去年より堅く御停止(ゴチョウジ)なられ候ところ、諸国の百姓等田畠を打ち捨て罷り上げ候について、御成敗加えられ、所々に幡物(磔刑)にかけさせられ候、しからば向後日用取召し仕え候族これあるにおいては、とらへ申し上ぐべく候、則ち召し仕え候者の跡職、訴人に下さるべき候旨、仰せ出だされ候条其の意を得らるべきこと、
一、知行それぞれに下され候ところ、人を相抱えざる故、日用を雇い候儀、曲事に思し召し候事、
一、御代官・給人対百性(姓)、もし非分の儀申し懸け、故をもって百姓逐電つかまつるにおいては、御糺明の上をもって、代官・給人曲事たるべきの旨候、恐々謹言
*御意:秀吉の意思
*急度:必ず
*日用取:日傭取ともいう、日払いの武家奉公人
*幡物:はりつけ
*訴人:申し出た者
*跡職:残された土地など
*御代官:蔵入地(秀吉の直轄領)の代官
*給人:土地を与えられた者、大名から地頭クラスまで
*逐電:逃亡すること
(大意)
(秀吉様の)お考えとして必ず伝えます
一、武家奉公人の件は、去年よりきびしく禁止されたところ、各地方の百姓らが田畑を捨てて上京してくることについて御成敗(「御」というのは秀吉への敬意を示している)を加えられ、様々なところで磔刑に処した。であるから、今後武家奉公人を召し使う者がいれば、捕縛しなさい。すなわち、召し使った者の土地などは訴人に下される旨を仰せになったので、その通りにしなさい
一、知行をそれぞれに下されたところ、人を抱えないので(家来を抱えないので)武家奉公人を雇うことは罪科とする
一、御代官(「御」は秀吉への敬意)や給人が百姓に対して、言いがかりをつけたことで百姓が逐電した場合には、事実を究明した上で代官や給人の罪科とすべきとのことである
このように、差出人、受取人のあるものを、古文書学では文書(もんじょ)と呼び、日記などの古記録、日本書紀などの編纂物と特別する。メディアでは、古文書・古記録・編纂物をすべて「古文書」と呼ぶが正確ではない。また「こぶんしょ」と読む方々もいらっしゃる。
折紙とは、半紙を横向きに置き、上下に折り、右上から書き始め、余白がなくなると左下から上下を反転させて書き続ける様式である。
ちなみに、書状、つまり手紙の多くはこの折紙を折り目に沿って切る「切紙」という様式を取ることが多い。先日言及した光秀の書状も切紙に当たる。
ここでは、豊臣五奉行のうち、前田玄以・長束正家・石田三成・増田長盛の4人が連署して、上坂八右衛門尉に宛てている。
豊臣氏の四奉行が上坂氏に、村落支配はこうしなさいと伝えた文書である。秀吉は荘園毎に異なっていた升の大きさを統一し、また面積の単位も一新した。そのような文脈から、戦国期のような在地の多様で雑多なルールを排し、全国を統一したルールで支配しようとし、家臣に支配のあり方をも統一的ルールの下においた、とも理解できる文書である。
秀吉ははりつけが好きらしく、喧嘩に及んだ村人80人余を一度に磔刑に処したという。その眺めはいかばかりであっただろうか。映画「スパルタカス」のラストシーンを彷彿とさせるものがある。
本日は、映画公開が近いといわれる公開されている関ヶ原の戦後処理に関する史料を読みたい。合戦が9月15日だから6日後に村々に宛てて出された触である。
禁制
哥村
金谷村
嶋田村
直井村
大塚村
一、軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事、
一、放火之事、
一、妻子牛馬取之事、
右条々、堅令停止訖若有違犯之輩者、速可処厳科者也、仍下知如件、
(朱印)慶長五年九月廿一日
(折封ウハ書)
「御朱印 間宮彦次郎
奉之 」
(書き下し)
禁制
(5ヶ村名略)
一、軍勢・甲乙人ら濫妨(乱暴)・狼藉のこと、
一、放火の事、
一、妻子・牛馬これを取ること、
右の条々、堅く停止(ちょうじ)せしめおわんぬ、もし違犯(いぼん)の輩あらば、速かに厳科に処すべきものなり、よって下知、くだんのごとし、
(朱印)慶長五年九月廿一日
(折封ウハ書)
「御朱印 間宮彦次郎
これを奉る」
(大意)
(左にあげたことを)禁止する
(村名略)
一、軍勢や一般人が乱暴したり、狼藉をはたらく事。
一、放火する事、
一、妻子や牛馬を奪い取る事、
右の条文に記した事をかたく禁じたところである。もし背くものがあれば厳罰に処しなさい、以上ご下命の通りである
*甲乙人:年齢や身分を問わない全ての人。転じて、名をあげるまでもない一般庶民のことを指した。「甲」「乙」などの表現は、現代日本における「A」「B」や「ア」「イ」などと同じように特定の固有名詞に代わって表現するための記号に相当し、現代において不特定の人あるいは無関係な第三者を指すために「Aさん」「Bさん」「Cさん」と表現するところを、中世日本では「甲人」「乙人」「丙人」と表現した
*間宮彦次郎:徳川家康の家臣
なお、この文書の差出人は朱印の持ち主であり、宛所は5ヶ村ということになる。
禁制は戦時にその地域や寺社などの「安全」を保証することを示す文書である。大抵三ヶ条からなり、1.軍勢が乱暴しないこと2.放火はしないこと3.竹林の伐採はしないことを約束する場合が多い。しかしここでは妻子や牛馬の強奪を禁じている点が興味深い。
藤木久志氏の詳細な考察によれば、戦場では人身売買の対象となる人間、特に女性や子どもが戦いに紛れてさらわれていたことが指摘されている(参考文献は膨大なので割愛)。
また、牛馬は農耕や戦闘の必需品であり、当然高値で売れただろう。
家康は5ヶ村に対して、生命および財産の保証を約束することで、関ヶ原戦直後の不穏な空気を和らげ、村々の統治を平和裡に行おうとしたのではないだろうか。ただ、「生命の保証」とはいっても妻子限定であり、青壮年が兵役や労役に徴発される可能性までは否定できない。
関ヶ原合戦の政治史的位置については笠谷和比古氏の詳細な研究があるので、詳しくはそちらによられたいが(同『関ヶ原合戦』講談社、1994年、また「徳川家康の征夷大将軍任官と慶長期の国制」1992年 http://id.nii.ac.jp/1368/00000893/)、19日に小西行長、22日に石田三成が捕らえられていることから、21日は残党狩りのさなかであった。村人たちは相当の恐怖心を募らせて、間宮の文書を待っていたことだろう。